人形佐七捕物帳(巻十四) [#地から2字上げ]横溝正史   目次  舟幽霊  捕物三つ巴《どもえ》  丑《うし》の時参り  仮面の若殿  白痴娘     舟幽霊  屋形船   ——ずぶぬれの女がしょんぼりと 「ほんとうにすみません。もうそろそろかえってくるじぶんだと思うんですが、ついでのことに、もう少々お待ちくださいましたら……」 「おかみ、せっかくだがそうはいかねえ。もうだいぶ、約束の時刻もすぎたようだ。辰、仕方がねえから、駕籠《かご》でも拾おうよ」 「へえ、親分、それじゃそういうことにしますか。おかみさん、すまなかったねえ」 「いえ、もう、とんでもない。こちらこそ……久蔵も長吉も、いったい、なにをしているんだろうねえ」  そこは柳橋の舟宿、井筒の二階である。  川向こうに用事があって、舟で繰り込むつもりのお玉が池の佐七は、きんちゃくの辰と、うらなりの豆六をひきつれて、なじみの舟宿井筒へやってきたが、あいにく舟はみんな出払って留守。  仕方がないから、二階で一杯やりながら、四半刻《しはんとき》(半時間)ほど待ってみたが、いっこう舟のかえってくるもようもないので、とうとうしびれを切らして、立ちあがった三人である。 「ほんとうに申し訳ございません。そういううちにも、だれかかえってきやアしないか」  おかみのお徳は未練たらしく、二階の手すりから身をのりだして、川のあちこちを見わたしている。  今夜は陰暦八月十五日、いわゆる中秋名月である。  空にはおあつらえむきの満月があかるくかかっているが、隅田川《すみだがわ》のうえには薄もやがたれこめて、両岸の家々も、川のうえをいきかう舟も、いぶしたような銀色の底にしずんでいる。  九月十三夜の後の月を豆名月というのにたいして、八月十五日は芋名月。川にめんした井筒の二階の縁側にも、はぎ、すすき、秋の七草にそえて、芋や団子がそなえてある。  佐七もその縁側へでて、川のうえをみていたが、 「おかみ、そこへきたなあ、このうちの舟じゃねえか」 「いいえ、あれはちがいます。ほんとうに、どうしたというんだろうねえ」  お徳がじれったそうに、銀かんざしで頭をがりがりかいているとき、思いがけなく、いまの佐七の指さして舟から声がかかった。 「もし、井筒のおかみさん、そこにおいでのお客さんは、お玉が池の親分さんじゃありませんか」  呼びかけられて、お徳がそのほうへ目をやると、いましも、井筒のまえを通りかかった屋形船の船頭が、こぐ手をやすめてこちらを見ている。 「ああ、そういうおまえさんは山吹屋の若い衆。親分さんになにか用かえ」 「いえね。お玉が池の親分さんも、たしか今夜、大桝屋《おおますや》さんの寮へいらっしゃるはず、なんならごいっしょに……と、こちらのお客さんがおっしゃるんです」  渡りに舟とはこのことだが……と、佐七もちょっと手すりから身をのりだして、 「おかみ、ありゃどこの若い衆だえ 「はい、あれは山吹屋といって、へっつい河岸にある舟宿の若い衆で、巳之助《みのすけ》というんです。ちょいと、巳之さん、そして、そちらのお客さんというのは……?」 「へえ、それは……」  と、巳之助はなにかいいかけたが、屋形のなかから呼びとめられたらしく、ふたこと三こと話をしていたが、やがてにやにやしながら、 「けっして怪しいおかたじゃございません。お玉が池の親分さんもよくご存じのおかたなんで……ぜひ、親分さんのお供をして、向島《むこうじま》まで、まいりたいとおっしゃってでございます」 「ほんに、巳之さん、そうしてもらうとうちも助かる。すっかり舟が出払って、さっきから困ってたところなんだから……親分さん、どうなさいます」 「そうよなあ」  佐七は辰や豆六と顔見合わせて、 「どういうおかたか知らないけれど、それじゃ、おことばにあまえるとしようか」 「そうなさいまし。それにしても、いったいどういうおかたかしら」  と、さきにたって階段をおりたお徳は、こぎよせる屋形船のなかをのぞいて、 「おやまあ、あなたは天王寺屋の親方さん、お駒《こま》ちゃんもごいっしょかえ。ほ、ほ、ほ、これはお安くないわねえ」 「おかみさん、からかっちゃいけません。ついそこでいっしょになったのさ。お玉が池の親分、辰つぁんも豆さんも、どうぞおはいりなすって」  屋形船のなかには、ひとめで役者としれる男が、わかい芸者とさしむかいで、酒さかな、まことにおつな情景である。  男のとしは二十五、六、白がすりのうえに、黒い絽《ろ》の羽織をむぞうさにひっかけて、まゆをそりおとした顔が、軒につるした岐阜《ぎふ》ぢょうちんのほのかな光に、気味悪いほどしろくさえている。  これがいま、人気の絶頂にあるといわれる花形役者、上方くだりの中村富五郎である。  その富五郎とさしむかいで、ほんのり上気したほおを川風になぶらせているのは、ちかごろ柳橋でも売り出しのわかい芸者で、名はお駒《こま》。 「おお、これは天王寺屋か。それじゃ、おまえさんも大桝屋の寮へ……?」 「はい、お招きをうけて、いま出向くところでございます。さあ、親分も辰つぁんも、それから豆六さんもどうぞおはいりなすって」 「それじゃ、遠慮なくおんぶされようか。辰、豆六、おまえたちも乗んねえ」 「へっへっへ、お駒ちゃん、おじゃまじゃないかえ」 「なんや、こら、悪いみたいだんな。駒ちゃん、かましまへんのんかいな」 「いやな兄さんたち、乗るならさっさとおのりなさいよ。親分さん、しばらく」 「ああ、しばらく。いつ見てもきれいだね」  佐七と辰と豆六は、器用に舟に乗りこむと、 「それにしても、親方、おいらがあすこにいることが、よくわかったね」 「いえね、そこにいる巳之さんが見つけたんです。お玉が池の親分さんが、井筒の二階にいらっしゃるというもんですから、それじゃ、これからお出かけのところだろうと、ちょっと声をかけさせたんです。まあ、おひとつ、辰つぁんも、豆さんも、どうぞ」 「それじゃ、みなさん、いってらっしゃいまし。巳之さん、頼んだよ」  と、これが舟宿のおかみのあいきょうというやつである。みよしに手をかけ、やんわりひと押しおそうとして、なに思ったのか、お徳はだしぬけに、 「あれえッ!」  と、叫んでそでのなかに顔を埋めた。 「ど、どうしたんだ、おかみ。やけにまた大きな声を立てるじゃないか」  佐七にたしなめられて、お徳はおずおず顔をあげると、おそるおそる屋形船のなかを見まわし、 「あら、すみません、わたしとしたことが……」 「いったい、どうしたんだ」 「えらいまたぎょうさんな声を出すやおまへんか。どないしやはったんや」 「いまそこに……天王寺屋の親方さんのちょうどうしろに、ズブぬれになった女が、髪をさんばらにして、しょんぼり座っていたような気がしたもんですから……」 「じょ、じょ、冗談じゃない。おかみさん!」  と、中村富五郎が意気込むと、 「あれ、まあ、怖い!」  と、お駒が身をふるわせて、がばっと薄べりに突っ伏すのと、ほとんど同時だった。  佐七が辰や豆六と、あきれたように顔見合わせているところへ、 「で、で、出ますよ!」  と、すっとんきょうな巳之助のひと声。  屋形船はゆらりゆらりと井筒の桟橋《さんばし》をはなれると、月の隅田川をこぎのぼっていく。  銀のかんざし   ——かんざしにまつわりついた黒い髪  その夜は、向島にある大桝屋嘉兵衛《おおますやかへえ》の寮で月見の宴が開かれることになっていて、お玉が池の佐七も招待をうけているのである。  大桝屋嘉兵衛というのは、もとは上方のものだということだが、十数年まえに江戸へ出てきて、はじめは紙くず買いかなんかしていたのが、深川の富くじにあたって、千両ころげこんだのが運のつきはじめとやら。それを資本に芝居の金主になったところが、これがまた大当たりで、いよいよ身代をふとらせたところへ、五年前の江戸の大火。  その際、いちはやく木曽《きそ》のひのきを買いしめて、とうとう江戸でも指折りのものもちとなりおおせたが、根が芝居の金主でもしようという男だから、いたって派手ずきな性分で、いまでは江戸芸能界の大パトロン、江戸の芸人衆でこのだんなの息のかからぬものはないといわれるくらい。  それだけに、こんやの月見の宴のはなやかさも思いやられる。  お玉が池の佐七は芸人ではないが、当時、江戸一番の捕り物名人といわれるくらいの人気者、いつかこのお大尽の知遇をえて、こんやもとくに招かれているのである。 「ときに、天王寺屋の親方」  こころよい川風にほおをなぶらせながら、お駒の酌《しゃく》でかるく酒をのんでいた佐七は、思いだしたように、富五郎のしろい額に、いたずらっぽい目をむけた。 「さっき、井筒屋のおかみが、妙なことをいったじゃないか。おまえさんのうしろに、ズブぬれのさんばら髪の女がしょんぼり寄りそうていたと……あっはっは、おまえさんなにか、女に取り憑《つ》かれるようなおぼえがあるのかえ」 「とんでもない、親分さん。冗談もいいかげんにしてください。あのおかみさんもまた、つまらないことをいうもんだ」  吐きすてるようにいいながら、それでもさすがに富五郎も気味悪そうに、そっとじぶんのまわりを見まわしている。 「きっと、すだれにうつる兄さんの影が、そんなふうに見えたんですよ。あのおかみさんも相当あわてもんだこと」  いくらかあおざめている富五郎に、寄りそうようにして酌をしてやりながら、お駒はとりなすようにいう。 「へっへっへ、だけど、駒ちゃん、そういうおまえさんだって、きゃっと叫んで突っ伏したじゃねえか。おまえもこれを見たんじゃねえのか」  きんちゃくの辰は、両手をまえにぶらりとさげて、はたからからかうようにいう。 「そら、天王寺屋の親方のこの人気、女の死霊生き霊がうじゃうじゃと……お駒ちゃん、あんたもそれ見たんとちがいまっか」 「とんでもない。あたしゃあのおかみさんがあんまり真顔だから、ついつりこまれて……ほんとうに憎らしいったらありゃアしない」 「ほんに、あのかみ、そうとう真剣な目つきをしていたぜ。あの女の気性なら、おれもよく知っているが、枯れ尾花を幽霊と見まごうてからさわぎをするような女じゃねえが……」「それじゃ、親分さんはほんとうに、この舟に女の幽霊が出たのを、あのおかみさんが見たとおっしゃるんですか」  富五郎はひらきなおってきっと尋ねる。返事によっては、ただではおかぬという目つきだ。  中村富五郎はまだ二十五、現今の歌舞伎《かぶき》役者のとしからいえば、若手も若手、まだかけだしの年ごろだが、早熟なその時代の役者でも、とりわけ早熟だった富五郎は、すでにもう大立て者としての貫禄《かんろく》を身につけており、親方という呼び名さえ、そう不自然ではなかった。  それだけに、開きなおると、ちょっと鋭い気魄《きはく》がこもる。 「あっはっは、そりゃ出たかもしれねえよ」  と、佐七はわらって、 「だって、つもってもみねえ。いま江戸じゅうの女という女は、天王寺屋の親方といやア、目の色がかわるんだ。そのおまえさんが、こんなべっぴんさんとさしむかいで、よろしくやってるとありゃア、いま豆六もいったとおり、生き霊か死霊かしらねえが、ねたましさにたえかねて、ついヒュードロドロと……あっはっは」 「親分さん、ご冗談を……」  うまくはぐらかされて、富五郎は怒りもならず、にが笑いをしている。 「あら、まあ、いやな親分さん」  お駒はまんざらでもない顔色で、銀かんざしの根で頭をかいている。 「あっはっは、ごめん、ごめん、かりそめにも、人気|稼業《かぎょう》のおまえさんがただ。いまのようなうわさに尾ひれがついて、ひろまっちゃ迷惑だろう。辰、豆六もしゃべるな。おい、巳之助さんとやら、おまえもめったなことをいうめえぞ」 「へ、へ、へええ、そ、そりゃ、親分、あっしゃ口がたてに裂けても……」  船頭の巳之助も櫓《ろ》をこぎながら、さっきから話をきいていたらしい。屋形の外から、あわてたような返事だった。 「よし、井筒のお徳にゃおれから口止めをしておこう。さあ、ものこの話は水に流して、もう一杯のみなおそうじゃないか」 「親分、ありがとうございます」  大桝屋の寮ももうまぢかである。  お駒の酌で、四人はあっさり酒をのみなおしていたが、そのうちになに思ったのか、佐七がふっとお駒のあたまに目をやった。 「おや、お駒、おまえそこにかんざしをさしているな」 「はい、親分、このかんざしがどうかしましたかえ」 「いや、そうじゃねえが……それじゃ、ここに落ちているこのかんざしは、いったいだれのかんざしだろう」  と、佐七が薄べりのしたからさぐり出したのは、銀の平打ちで、頭に揚げ羽のちょうの紋所。 「あらまあ、かんざしが落ちていたんですか」  お駒は佐七の手もとをのぞきこんで、 「おや、それは兄さんの紋所ですわねえ。ちょいと、巳之さん」 「へえ、へえ、ねえさん、なんでございますか」  船頭の巳之助が屋形の外からこたえる。 「きょうこの舟に、だれか女のお客がお乗りだったんですかえ」 「へえ、へえ、さき巴屋《ともえや》のねえさんを、やっぱり大桝屋さんの寮までお送りいたしました」  巴屋のねえさんときいて、お駒の顔色のかわるのを、佐七はさすがに見落とさなかった。 「巳之さん、巴屋のねえさんというのは……?「へえ、おえんさんのことでございます。おえんさんも天王寺の親方といっしょにいきたかったようですが……」 「えっへっへ、なるほど、それでわかりやした」 「なんだ、辰、なにがわかったというんだ」 「だって、親分、おえんの落としていったかんざしのうえで、天王寺屋の親方と駒ちゃんが、差しむかいでさしつさされつ」 「そやそや。そやさかいに、おえんはんが生き霊となって、ヒュードロドロ……」  と、辰と豆六が調子にのって、またへんな手つきで乗りだすのへ、 「よさねえか、辰、豆六もひかえねえ。その話はもう水に流した、流した……」  と、そういいながら、手のうちにある銀かんざしに目をおとした佐七は、なんとなくゾクリと肩をふるわせた。  かんざしの脚に二、三本、くろい髪の毛がまつわりついているのが気味わるい。  寿貞尼   ——ほのかに色気のただよう顔が  大桝屋の寮は、隅田川から小梅のほうへ折れる川筋にあたっており、庭には潮入りの池があり、小さな舟なら水門をくぐって、寮のなかへはいれるようになっている。  その水門のそとへ屋形船がつくと、 「おや、いらっしゃい。これはこれは、お玉が池の親分に天王寺屋の親方、それに柳橋のお駒ちゃんと、大名題がそろいましたな」  と、裏門からとんで出たのは、吉原《よしわら》の幇間《ほうかん》で桜川一平という男。お大尽への忠義立てとばかりに、さかんにあいきょうをふりまいている。 「一平さん、おそくなりまして。もう、みなさん、おそろいでございますか」 「はい、はい、あらかたおそろいでございますが、いま日の出の人気役者の親方がおみえにならなきゃ、竜《りゅう》をえがいて目玉を入れぬもおなじことと、さっきからみなさん、首をながくしてお待ちかねでございます。さあ、さあ、どうぞ」 「ほ、ほ、ほ、あいかわらず一平さんの愛想のよいこと、よく舌のまわることですねえ」 「ええ、それゃもう、今夜はとくにたっぷり、油をさしておきましたからな。しかし、お駒ちゃん、おまえさん、気をつけなきゃいけませんぜ」 「あら、どうして……?」 「天王寺屋の親方と相乗りで……こんなことがおえんさんにきこえたら、ほら、このとおり……」  と、両手の指で額に角をつくるのを、 「一平さん、なにをつまらないことをいってるんですよう」  と、うしろからポンと背中をたたいたのは、これもどこかの茶屋から出張してきたのだろう、まゆをおとした大年増。 「さあさあ、みなさん、おはいりくださいまし。おや、巳之さん、またおまえさんだったの、ご苦労さまだねえ。こんどはちょっとなかへはいって、息つぎに一杯のんでおいでな」 「へえ、おかみさん、ありがとうございます。それじゃ、ちょっと舟のしまつをいたしまして……」  巳之助をそこにのこして、一同は裏木戸からなかへはいっていく。  坪数にして三千をこえるといわれるこの寮は、まるでお大名の下屋敷のように、山あり、川あり、池あり、その池には泉殿さえ立っている。  うっそうとしげった木立のなかを歩いていくと、木の間をもれる月の光が、あかるい斑《ふ》を点々と地上におとして、ちょうちんもいらぬくらいである。  その木立のむこうには、あかあかとあかりのついた座敷に人影が右往左往して、もう乱痴気さわぎである。 「あっはっは、だいぶ盛んにやってますな」 「へえ、もうみなさん上きげんで……これでお玉が池の親分と、天王寺屋の親方さんがおみえになったといやア、いよいよわっと沸き立ちまさあ。あっ、こ、これは失礼を……」  とつぜん、桜川一平が土下座をせんばかりにそこへうずくまったので、一同はぎょっとして立ちどまる。見ると、一平のまえに、墨染めのころもをまとうた尼がひとり、ちょっと戸まどいしたようなかっこうで立っている。年ごろは四十五、六であろうか。  まだほのかに色香のただよう顔を、水色の頭巾《ずきん》にくるんで、手にはいま手折ってきたばかりか、露したたらんばかりの秋草をだずさえている。 「ああ、お月見でいらっしゃいましたか」  一平はまだ土下座のかっこうで、うやうやしい切り口上だ。 「はい、あまり月がよいものですから……おじゃまをしました。はやくお客さまをむこうへ……」  尼はかるく会釈をすると、そのまますたすたと歩いていく。  そのうしろ姿を見送って、 「まあ、なんてきれいなかたでしょう。一平さん、あのかたはどういう……?」  お駒がほっとため息をつく。 「はい、あのかたは、おかみさんでございますよ」 「おかみさん……」  佐七もぎょっと、辰や豆六と顔見合わせる。みんなちょっと度肝をぬかれた顔色だった。  そういえば、大桝屋の本宅は、日本橋の新材木町にあるのだが、嘉兵衛の家内のお秋というのはそこにおらず、向島の寮にすんでいると聞いていたが、まさか髪をおろして、尼になっているとは知らなかった。 「ほんとうによくできたおかみさんで、いまじゃ髪をおろして、寿貞尼とおっしゃるんですが、だんなにゃしたい放題のことをさせ、ごじぶんはきよく行いすましていらっしゃるんです。どんなにだんなが浮気をなすっても、やきもちひとつおやきになりません。かえっていつもしりぬぐいで……さすが剛腹なこちらのだんなも、あのかただけにゃ、いちもくも、二目もおいてらっしゃるようで……ほい、しまった。これはまた舌がまわりすぎました。さあ、まいりましょう」  一平はまたさきに立って歩きだしたが、そのとき、佐七をはじめ辰や豆六も、中村富五郎の顔色が、紙よりも白くなっているのを見のがさなかった。  池の中   ——うらめしそうに目をみひらいて 「やあ、お玉が池も天王寺屋も、よくきてくれたなあ。あっはっは、腰ぎんちゃくの辰つぁんも、うらなりの豆六さんも元気だな。さあさあ、みんなこっちへきて一杯のんでくれ」  開けはなった百畳敷きの大広間は、いまや大陽気の大乱痴気。あちらで拳《けん》をうつのも、こちらではやり歌をうなるもの、酔うてくだをまくやつもあれば、下手な踊りを踊るやつもある。男も女もともに入りみだれて、これじゃ月見どころじゃない、  杯盤狼藉《はいばんろうぜき》とはまさにこのことだが、その上座にすわって、にこにこと杯をあげているのは、いま江戸で一、二といわれるお大尽、大桝屋嘉兵衛である。  としはもう六十の坂を越えているのだろうが、大兵肥満《だいひょうひまん》のからだは、壮者のようにみずみずしく、血色のよい童顔には過去の苦労もきざまれているが、どこかゆったりした風格がある。 「だんな、どうもおそくなりまして……それじゃ、お流れをちょうだいいたしましょう」 「お玉が池、ほんとうによくきてくれたな。なにもないが、まあ、気楽にあそんでいってくれ。辰、豆六、おまえもあいかわらず元気でいいな」 「へっへっへ、だんな、こんやはおさかんで結構でございます」 「だんなとわてとは同郷のよしみや。こんやは遠慮ぬきで、うんとごちそうになろおもて、晩飯もろくに食べんと、親分のお供してきたんだっせ」  豆六はあいかわらずいうことが意地きたない。 「うっふ、それはどうもありがとう。おや、天王寺屋、おまえどうした。顔色がすぐれぬようだが……」 「いえ、あの、ちょっと舟のうえで寒気がしたもんでございますから」 「そら、寒気もしまっしゃろ、死霊生き霊につきまとわれたらな」 「なに、死霊生き霊……?」 「これ、豆六!」  と、佐七はことばするどくたしなめて、 「なあに、なんでもございません。舟のなかで狂言の話をしていたんです」 「あっはっは、なにかと思えば芝居の話か」  と、嘉兵衛大尽はかくべつ疑いの色もなく、 「そうそう、芝居で思いだしたが、おれも今夜、芝居のような話をきいた。天王寺屋、おまえ親のかたきを探しているというが、それゃア、ほんとの話かえ」 「えっ、だ、だれがそんなことを申しました」  富五郎の顔がさっと紫色になる。  嘉兵衛の周囲にいたものは、みんな目をまるくして、そのほうをふりかえった。 「いや、なに、さっきおえんから聞いたんだがな」 「おえんさんがそんなことを申しましたか」  富五郎の声はかすかにふるえる。 「ふむ、くわしいことは聞かなんだが、なんでもおまえの親のかたきが江戸にいるらしいというので、おまえ、それとなく探しているというじゃないか。それゃアいったいどういう話だ。おれにもひとつ聞かさないか」 「冗談ですよ、だんな」  富五郎はにが笑いをして、 「いつかそんなことをいって、おえんをからかったことがあるんです。それじゃ、おえんはあの話をまにうけていたんですか」  だが、そういう富五郎のことばのはしに、どこかあいまいなひびきがあったので、一同は顔見合わせて、ちょっと座がしらけかかった。  佐七はその空気をすくうように、 「おえんといやア、姿がみえませんが、どうしました。あっしゃおえんに渡したいものがあるんだが……」 「ああ、おえんはな、あっはっは」  嘉兵衛大尽はだしぬけに、腹をゆすって笑いあげると、つるりと顔をなであげて、 「おえんについちゃ、富五郎、おまえにあやまらねばならぬことがある。このとおりだ。許しておくれ」  嘉兵衛が畳に手をついたので、富五郎はびっくりしたように目をまるくした。 「あれ、だんな、どうかしたのでございますか」 「じつはな、今夜、おえんをくどいた。離れ座敷へつれこんでな。おえんも帯をときそうにしたので、しめたと、おれもはだかになった。ところが、なんとそこへひょっこり寿貞尼がはいってきたので、おえんは逃げ出す、おれははだかで大まごつき。いやはや、こんなに器量をさげたことはなかったて。あっはっは」  嘉兵衛が腹をゆすって笑っているところへ、あわだたしく駆けこんできたのは、船頭の巳之助。 「親分、たいへんだ、たいへんだ。おえんさんがのどをしめられて、池の中に……」 「なに、おえんが殺されたと!」  佐七はいっしゅん、ぎょっと嘉兵衛のほうへ目をやったが、すぐ、すっくと立ちあがっていた。  おえんは池のなかに仰向けにうかんでいた。  帯が半分とけかかり、ひどく着物が着くずれて、うらめしそうに、くわっと目を見ひらいた蝋細工《ろうざいく》のような顔を、おりからの名月がしらじらと……。  無残絵   ——見るもふしぎかずかずの傷  水からひきあげられたおえんの顔は、さらされたように白く、くわっと見ひらいた目が、おりからの月の光に、鬼火のようにきらきらと……。  美人の死に顔というものは、醜婦の死に顔よりも、かえってすごいものである。  佐七はゾクリと肩をふるわせながら、 「おい、辰、ちょうちんをもっとこっちへよこせ」 「へえ」  きんちゃくの辰がへっぴり腰で、さし出すちょうちんの光のもとで、佐七は着物のぬれるのもかまわず、そっとおえんを抱き起こす。  おえんはことし二十四、ちょっととうが立っているが、柳橋では名妓《めいぎ》といわれ、中村富五郎との仲は、だれ知らぬものはないくらい。  そのおえんのあさましい姿に、佐七はなんとなく哀れをもよおしながら、のどにからみついた黒髪をとりのけたが、とたんにぎょっと息をのむ。 「お、親分……」  そばからのぞきこんだ豆六もふるえ声で、 「おえんは指で絞め殺されよったんだんな」 「ふむ、ひでえことをしやアがる」  見ればなるほど、おえんののどには、なまなましい親指の跡がふたつ、くっきりとついているのである。 「親分、下手人はおえんに馬乗りになって、うえから絞めつけたんですね」 「ふむ、この指の跡からかんがえると、どうもそのようだな」 「親分……」  と、豆六は声をひそめて、 「ひょっとすると、こっちゃのだんなが……」 「しッ!」  佐七はあわててあたりを見まわしたが、さいわい、大桝屋の嘉兵衛はじめ一同は、少しはなれたところに立っていた。 「豆六、めったなことをいうもんじゃねえ」 「だって、親分、さっきだんなは、おえんを離れ座敷へひっぱりこんで、帯をとかせようとしたといったじゃありませんか。そのとき、おえんが手向かったので、つい、かっとして……」  辰も豆六と同意見らしい。 「しかし、辰、豆六もよく見ろ。それなら、おえんのからだのこの傷は、いったい、どうしたというんだ」 「へえ、からだの傷とは……?」 「辰、豆六、これを見ろ」  べっとりと膚にまつわりついているおえんの着物の胸もとを、佐七が大きくひらいてみせたせつな、 「あっ、こ、これは……」  と、辰と豆六は、おもわず大きな声をはなった。  おえんの右の乳のしたあたり、なにかに強くうたれたらしく大きく、紫色のあざができている。 「親分、そ、それじゃおえんは、そこを打たれて死んだんですか」 「さあ、それはどうだかわからねえが、傷はこればかりじゃねえ。ほら、これを見ろ!」  佐七がそっと着物のすそをめくると、辰はまた、ぎょっとしたように息をのむ。 「親分、そ、そ、それは……」  辰と豆六が、おどろいたのもむりはない。右のふくらはぎのあたり、まるでおおかみにでもかみさかれたように、ごっそり肉がもぎとられている。 「親分、こ、こら、いったい、どないしたんだっしゃろ」 「ふむ、おれにもまだよくわからねえが、ほかにも傷があるようだ。かわいそうだが、はだかにしてみよう。辰」 「へえ」 「だれも近よらねえように気をつけてくれ。なんぼなんでも、こんなところを見せつけちゃ、おえんもあんまりかわいそうだ」 「おっと合点です」  佐七はぬれたおえんの帯をとき、体じゅうをあらためてみたが、驚くなかれ、おえんは全身に七カ所の、打撲傷や、切り傷をうけ、見るもむざんなていたらくである。 「お、お、親分……」  さすがの辰も、あまりにもむごたらしいおえんの死体に、ガタガタとふるえながら、 「いったい、だ、だ、だれがこんなひどいことをしやアがったんです」 「いったい、だれがというよりも、いったい、なんのためにこんなことをやらかしたのか」 「親分、下手人はおえんを、なぶり殺しにしよったんだっしゃろか」 「いや、それはそうじゃアあるめえ。こんなひどいことをされちゃ、おえんも声を立てているはず、これゃ、死んでからできた傷にちがいねえが、どうして、こんなひどいことをやりゃアがったか……」 「かわいさあまって、憎さが百倍、しめ殺しただけじゃ、腹の虫がおさまらなかったんじゃありませんか」 「そや、そや、それで、こないなむごいことさらしよったんやな」 「そうかもしれねえし、そうでねえかもしれねえ」 「そうでねえかもしれねえとは……?」 「かわいさあまって、憎さが百倍でやったとしても、いったい、どんなえものを使って、こんなひどい傷をつけたのか、それが、おれにゃアふしぎでならねえ」  じっさい、佐七が首をひねるのもむりはない。  おえんのからだを、無残絵にそめ出した七つの傷のうち、ひとつとしておなじ種類のものはなかった。  ある傷は太い棒でつかれたようだし、ある傷は鋭利な刃物で切られたようだ。そうかと思うと、鋭い錐《きり》でつかれたようなのもあるし、また、さきほどもいったとおり、おおかみの牙《きば》にかみさかれたような傷である。  さすがの佐七も、そのむごたらしい死体をまえにおいて、思わずウームとうなったものだ。  落ちたかんざし   ——水をむけられてついふらふらと 「だんな、どうもとんだことができました。かかりあいになってご迷惑でしょうが、ひとりひとり殺されたのでございますから、この佐七のご無礼をお許しくださいまし」  それからまもなく、離れ座敷でむかいあった大桝屋嘉兵衛と佐七のふたりなのだ。 「ああ、いや、お玉が池」  と、さすが剛腹な嘉兵衛も、動揺の色おおうべくもなく、 「それゃおまえさんは役目だから、無礼のなんのと遠慮することはねえ。ぴしぴし調べてもらわにゃならんが、いったいこれゃ、どうしたというんだ」 「だんなはそれについて、お心当たりはございませんか」 「おれに……?」  嘉兵衛は射すくめるような佐七の視線を鋭くはじきかえしていたが、やがて、のどの奥でひくく笑うと、 「それじゃ、おまえさんは、おれがおえんを殺したとでもいうのかな」 「おえんは両手で、のどを絞められているんです。下手人はおえんのうえに馬乗りになり、両手でのどをつかんで殺しているんです」  嘉兵衛はぎょっとしたように、佐七の目を見かえして、 「それじゃ、さっきこの座敷で、おれがおえんをくどいたとき、素直にいうことをきかねえから……」 「かわいさあまって、憎さが百倍と……」 「おれがやったというのかえ」  ふたりはしばらく、無言のままでにらみあっていたが、やがて嘉兵衛は腹をゆすって笑うと、 「お玉が池、それなら話はあべこべだ」 「へえ、あべこべと申しますと……?」 「さっき、富五郎にゃ、おれがおえんをくどいたといったが、じつをいうとそうじゃねえ。おえんのほうから、おれをこの座敷へひっぱりこんで、おつに水をむけてきたんだ」 「だんな」 「いいや、うそじゃねえ。ほんとうの話だ。おれだって、おえんと天王寺屋の仲は知っている。天王寺屋はおれのひいき役者だ。そいつのいろに、こちらから手を出すはずがねえじゃねえか」 「しかし、だんなははだかにおなりなすったとか……」  嘉兵衛はつるりとほおをなであげると、面目なさそうに笑いながら、 「だから、おれも、きれいな口をきけたもんじゃねえ。あんなきれいな女から、色っぽく水をむけられると、ついな、ふらふら……と。それに酒の酔いもてつだって……いいや、酒にとがをきせるわけじゃねえが、そこが男の意地きたなさというやつか、あっはっは、しかし、お玉が池」 「へえ」 「これは、あとから気がついたんだが、おえんは、ほんとうに、おれに膚を許すつもりじゃなかったんじゃねえか……と」 「それじゃ、だんなをからかったんですかい」 「いいや、そうでもねえらしい」 「じゃ、いったい、おえんはどんなつもりだったんです」 「さあ、そのことだが……」  と、嘉兵衛はまだじっと佐七の顔をみつめていたが、やがてにやりと不敵な笑みをうかべると、 「お玉が池」 「へえ」 「さっきむこうの座敷で、おれが天王寺屋にいったことな。ほら、天王寺屋が、親のかたきをさがしているということだ」 「だんな、そ、それがどうかいたしましたか」  佐七はぎょっとしたように息をはずませる。嘉兵衛はにやりとわらって、 「だからさ、おえんは天王寺屋のために、かたきをさがしていたんじゃねえのか……」 「おえんがかたきを……?」  佐七はあきれたように、嘉兵衛の顔を見ていたが、急にはっと気づいたらしく、 「そ、そ、それじゃ、だんなが天王寺屋の……」  嘉兵衛はまたにやりと笑うと、 「お玉が池、おれア人を殺したおぼえはねえ。しかし、天王寺屋がおれを親のかたきと思うのもむりはないのさ。そのむかし、おれは天王寺屋のおふくろを奪って……」  佐七は、またぎょっと息をのむ。さっき庭で出会った寿貞尼の、行いすました姿を思いだしたからである。 「天王寺屋のおやじというのは、悪いやつだった。はしにも棒にもかからぬならずものだった。おれは天王寺屋のおふくろがふびんで、哀れでならなんだ。おふくろもまた、おれをだれよりも頼りにしていた。男と女だ。それに、ふたりとも若かった。ふびんと思う男心と、たのもしいとすがる女心と、心と心がふれあって……つい、間違いが起こってしまった」  嘉兵衛はほっとため息をつき、 「いかにわるい亭主《ていしゅ》でも、それだからって、女房がうわきをしていいって法はねえ。お秋も苦しみ、おれも悩んだ。しかし、できてしまったあとになっちゃ、とりかえしがつかねえ。おれはお秋をつれて、大阪を立ちのき、この江戸へ落ちのびてきたんだ」  佐七は、あきれたように嘉兵衛を見ている。  嘉兵衛はちょっと息をのみ、 「そののち、風の便りにきけば、天王寺屋のおやじは、ならずものの仲間と大げんかをして、袋だたきになって殺されたという。しかし、そのころ天王寺屋は、先代の中村富五郎の養子となって、その膝下《しっか》にひきとられていたんだ。親はなくとも子はそだつ。その後、おいおい出世して、先代の跡をおそって、中村富五郎をついだ、ということを聞いたときにゃ、おれもお秋も、このうえもなくよろこんだ」 「それで、だんなは天王寺屋を、あのようにかわいがっていらっしゃるんですね」 「ふむ、せめてもの罪ほろぼしというわけだ。しかし、天王寺屋がおれのことを、親のかたきとうらむのも、これまたむりのねえ話だ。討とうというならうたれてもいい。お秋はとうの昔に世をすてている」  嘉兵衛は鼻をつまらせた。佐七もちょっとしんみりしたが、また思い出したように、 「しかし、おえんがどうしてだんなに……」 「おお、そのことか。天王寺屋もおれをはっきり親のかたきと知らねえわけだ。おれもお秋も、そのころとは名前をかえているからな。それに、あいつも幼かったから、顔もよくおぼえていねえんだろう。ただ、おれのからだにゃこのとおり」  と、嘉兵衛が大きく胸もとをくつろげたとたん、佐七は思わずはっと息をのんだ。  嘉兵衛のみぞおちのあたりに、大きな古傷がのこっている。 「だんな、そ、その傷は……?」 「天王寺屋のおやじに突かれた傷よ。すんでのことに、殺されるところだったんだ。天王寺屋はそれを知っていて、おえんにたしかめさせようとしたんだろう。おえんはおれを裸にして、この傷を見ると、それきりここをとび出して……」  佐七はまじまじと、嘉兵衛の顔と、その古傷を見くらべている。  嘉兵衛はやがてえりをかきあわせ、 「お玉が池、おれのことばにうそはねえ。おえんがここをとび出したとき、おれははっとそれに気がついた。しかし、べつにあとを追おうともしなかったんだ。それきり、おれはおえんがどこへいったのか知らなかった」 「ひょっとすると、寿貞尼さまが……」 「お玉が池」  嘉兵衛はするどい語気で、 「あれは虫一匹殺せる女じゃねえ。それに、おえんを殺すわけもねえ」  しばらくふたりは、たがいに目と目を見かわしていたが、嘉兵衛がふと思い出したように、 「ときに、お玉が池、おまえおえんに渡すものがあるといったが、それゃなんだえ」 「おお、そうそう」  と、佐七は思い出したように、 「ここへくる舟のなかで、このかんざしを拾ったので、おえんにかえそうと思っていたんです」  佐七の取り出したかんざしをみると、嘉兵衛はびっくりしたように目をまるくした。 「お玉が池、そんなはずはあるまいよ」 「え、だんな、どうしてですか」 「だって、さっきこの座敷で、おれがおえんを抱きすくめて、口を吸おうとしたとき、おえんの頭から落ちがのがこのかんざしだ。いいや、間違いはない。揚げ羽ちょうは天王寺屋の紋所だから、見まちがうはずはねえ。おれが拾っておえんの髪にさしてやったんだから、よくおぼえている。それがどうして、舟の中に……?」 「あっ!」  佐七の頭には、さっとある恐ろしい考えがひらめいた。  怨讐《えんしゅう》を越えて   ——親子の名乗りをさせてもらえ 「天王寺屋、お駒《こま》にもちょっとききたいことがある」  嘉兵衛といれちがいに、離れ座敷によびこまれたのは、中村富五郎と芸者のお駒だ。  ふたりとも、おえんのむごたらしい死にざまを聞いたとみえて、あおくなってふるえている。 「はい、あの、どういうことでございましょうか」 「おまえさんたちは、へっつい河岸の舟宿、山吹屋から舟を仕立ててきたんだね」 「はい、あの、さようで……」  中村富五郎はふしぎそうな顔色で、佐七のようすをうかがっている。 「お駒はどうしていっしょだったんだ」 「どうしてといって、べつに……山吹屋へまいりましたところが、舟が出払っておりましたので、一服しておりますと、駒ちゃんがやってきたんです。駒ちゃんも、こちらへ呼ばれているというので、それじゃいっしょにというわけで……ひとりで乗るより、つれがあったほうがにぎやかでございますから……」 「お駒、それにちがいねえか」 「はい、それにちがいございません。なんでしたら、山吹屋さんでお尋ねくださいまし」 「おまえたち、しめしあわせていっしょになったんじゃ……」 「とんでもございません。むしろ、約束しましたのはおえんなんで。おえんとあそこで落ち あって、いっしょにいこうといってたんですが、きょうは芝居のはねがおくれたので、おえんはひと足さきにきたんです」  佐七はふたりの顔を見くらべながら、 「おまえたち、おえんの目をぬすんで、うれしい仲になってるんじゃねえのか」 「とんでもない、親分さん」  お駒はちょっと開きなおって、 「それゃ、この兄さんに、おもいをよせないものはございません。しかし、この兄さんにはおえんねえさんというりっぱなひとがついております。そんなことができるはずはございません」 「あっはっは、それじゃ、今夜はただあの舟に乗りあわせたというだけか」 「はい。親分さんに疑われるような仲ならば、どんなにうれしいかしれませんけれど……」  お駒はそでのなかに顔を埋める。 「あっはっは、そんなことをいうから、おえんの幽霊がつきまとうんだ」 「あれえッ!」  お駒はおびえたように、天王寺屋のひざにとりすがる。  富五郎はからだをかたくして、 「親分さん、井筒屋のおかみさんは、ほんとに、おえんの幽霊をみたのでございましょうか」 「さあ、それなんともいえねえが……ときに、天王寺屋」 「はい」 「おまえ、おえんに、こちらのだんなの古傷をたしかめるように頼んだのか」  富五郎はぎょっと息をのみ、 「そ、そ、それじゃやっぱり、こちらのだんなに……」 「おお、ある。おれもいま見せてもらった。おまえ、それで、親のかたきをうつつもりか」 「とんでもございません。わたしの父というひとは、それはそれは悪いひとでございました。幼いころ、わたしもどんなにひどい目にあわされたかしれません。母はむしろ、こちらのだんなに救われたのです。わたしはただ、うみの母にあいたくて……」  富五郎はぽとりとひざに涙を落とした。 「よし、わかった。それじゃわけをいって、寿貞尼さんと親子の名乗りをさせてもらえ」 「は、は、はい……」 「ところで、天王寺屋、もうひとつ聞くが……」 「はい、あの、どういうことでございましょう」 「おまえさんたちが山吹屋で待っているところへ、巳之助の舟がかえってきたんだな」 「はい、さようで……」 「川上からかえってきたようすだったか」 「いえ、あの、それが、川下からのぼってきたようなかんじでした。しかし、それが……」 「よし、わかった」  佐七が立ちあがったところへ、辰と豆六がかけこんできた。 「親分、巳之助のやつ、どこをさがしてもいねえと思ったら……」 「屋形船ものうなってまんねん。どうやらかえってしもたらしい」 「しまった! 辰、豆六、おれといっしょに来い!」  佐七は顔色をかえて立ちあがっていた。  お徳のみたもの   ——ひょいと水の中から顔がのぞいた  秋の空模様のかわりやすく、佐七が大桝屋の寮をとび出したころより、そろそろくもりはじめていたが、山吹屋へかごを乗りつけたころには、もう大夕立になっていた。  山吹屋でたずねてみると、巳之助はまだかえらぬという。 「辰、豆六、こりゃいけねえ。柳橋までひきかえそう」 「へえ、柳橋はどちらへ」 「舟宿の井筒よ。幽霊を見たというお徳のところへいってみよう」 「しかし、親分、お徳がなにを知ってるんです。幽霊はなにもしゃべらなかったじゃありませんか」 「なんでもいいから、いっしょにこい!」  へっつい河岸から柳橋まで、ひきかえしてきたころには、夕立はいよいよはげしく、雷鳴が空をおおうていた。 「こ、こ、こりゃいけねえ。お、お、親分……」  みなさん、せんこく御承知のとおり、きんちゃくの辰は大の雷ぎらい。  死人のようにあおくなって、佐七のそでにつかまっている。 「難儀やなあ、いかにうまれつきちゅうたかて、日ごろはいせいのええ兄いが、雷いうたら青菜に塩や。そら、また光った」 「わっ、助けてえ」  辰はいまにもその場にへたばりそうだ。  だらしがないといえばだらしがないが、これが病とあればしかたがない。 「しっかりしろ! 井筒へつけば蚊帳をつらしてやる」  だが、井筒にはお徳はいなかった。ひと足ちがいで巳之助がつれだしたという。 「なんですか、巳之助さんはすごい目つきで、おかみさんはぶるぶるふるえておいででございました」 「しまった! そ、そ、それでふたりはどっちへいった」 「百本杭《ひゃっぽんぐい》のほうへおいででしたが……」  女中もあおくなっている。 「おい、ねえさん、ここのおかみと巳之助は、なにかわけがあるのじゃねえか」 「は、はい、あの、いえ、なに、よくは存じませんけれど……」 「よし、豆六、こい。辰、てめえはここで蚊帳でもつってもらえ」  豆六をつれて、井筒をとびだした佐七の血相はかわっていた。  土砂降りの大川端、百本杭のあたりまでくると、 「あれ、助けてえッ! ひ、人殺し……」  と、やみをつらぬく女の悲鳴。 「あっ、親分、あっちゃや、あっちゃや、あっちの方角でっせ」 「よし!」  ふたりがばらばらと駆けだしたとたん、さっと、地上をはいて、とおりすぎた稲妻のなかに、くっきりとうかびあがったのは、匕首《あいくち》ふりあげた男の影と、土のうえにざんばら髪でひざをついている女の姿。 「巳之助、御用だ! 神妙にしろ!」 「巳之助、御用や、御用や、神妙にしていや」  ふたりが声をかけると、 「あっ、ち、ちくしょう!」  という声とともに、やみのなかから、ざぶんという大きな水の音。  巳之助が川のなかへとびこんだらしい。 「しまった、とびこみやアがった」  お徳はさいわい薄手だったが、気がゆるんだのか、どろのなかにぐったりと気をうしなっている……。  その翌日、巳之助は板橋の宿でつかまったが、それによってなにもかもわかった。  おえんは嘉兵衛の古傷をたしかめると、その足で寮をとび出したが、そこに巳之助の舟がまだいたので、それにとびのったのである。  おえんは嘉兵衛の古傷のことを、いっこくもはやく、富五郎にしらせたかったのだろう。  ところが、わるいやつは巳之助で、そのまま舟を佃《つくだ》の沖まで流していって、そこで、おえんを手ごめにしようとしたのだ。  おえんも、しかし、きかぬ気の女である。かんざしを逆手にもって抵抗したが、女の非力のかなしさには、とうとう巳之助にさんざんおもちゃにされたあげく、絞めころされてしまった。  巳之助も女をころそうとまで思っていなかったから、これにはぎょと驚いたが、わるく度胸のすわったやつで、おえんのからだを船底にしばりつけた。  なぜ、そんなことをしたかとくと、おえんが大桝屋の寮をぬけだしたことは、だれひとりとして、知るものはないのである。  巳之助はおえんの口からそのことを聞いていたので、死体を寮へはこんでいって、池のなかへなげこんでおけば、寮のなかで殺されたことになるだろうと思ったのだ。  しかし、そのときおえんの手からもぎとった銀かんざしが、薄縁《うすべり》のしたにもぐりこんでいようとは、気がつかなかったのが運のつきだった。  そして、だいたいじぶんの思うとおりに、ことが運んだのはよかったが、そのまえに、井筒のお徳にかんづかれたらしいので、口をふさいでしまおうとしたのだ。 「あのとき、みよしに手をかけて舟をおすと、水のなかから、さんばら髪の女の顔が、ひょいとのぞいて……そのことをいおうとすると、巳之助がすごい目をしてにらみましたので、ついこわくなって、幽霊……と、ごまかしたんです」  お徳もかつて巳之助に手ごめにされて、それいらいズルズルに関係をつづけてきたので、かかりあいをおそれて、口をつぐんでいたのである。  おえんの全身にあった無残なきずは、船底にしばりつけられ、川のなかをひかれていくうちに、あちらの棒杭《ぼうぐい》、こちらの折れくぎと、いろんなものでできたのだろう。  どちらにしても、これほど凶悪なやつはないなと、佐七は舌をまき、 「それじゃ、親分、あのときあっしどもの酒をのんでいた船底に……」 「おえんの死体が、しばりつけておましたんかいな」  と、辰と豆六はあおくなって、ふるえあがったという。  天王寺屋の中村富五郎は、その後、寿貞尼と親子の名のりをして、江戸の役者になりすました。なにしろ、かれの背後には、大桝屋嘉兵衛という大だんながついているから、人気はいよいよたかまるばかり、おえんの一周忌をまって、お駒と夫婦になったという。  寿貞尼はその後、いよいよ行いすましているが、嘉兵衛はいぜんとして浮気の虫がおさまらず、寿貞尼にしりぬぐいをさせることしきりだそうだ。     捕物三つ巴《どもえ》  犬も食わぬ夫婦げんか   ——あたしは尼になってしまいます 「はい、わかりました。ようくわかりました。どうせ、あたしのような者がおそばにいては、お玉が池の人形佐七ともあろうけっこうな親分さんのお顔がつぶれるでしょう。お暇をいただきます。はい、きれいさっぱり別れましょう。別れて……わかれて、あたしは尼になってしまいます」  妙な風向きだった。  お玉が池の人形佐七の恋女房、お粂というのは、日ごろはいたって気さくなあねごだが、玉に傷なのはこのお粂、悋気《りんき》がなみやたいていでない。もっとも、それもむりのないところで、亭主《ていしゅ》の佐七は人形という異名のあるほどの男振り、度胸がよくて気前がよくて、おまけに捕り物にかけちゃ三国一——と、ここまではおいによろしいが、この佐七というのがもった病で、家にはお粂という恋女房がありながら、いまだに浮気のくせがやまない。  されば、家中がひっくりかえるような、やきもちげんかをおっぱじめることは、あえてめずらしいところではないが、それにしても、今宵《こよい》はすこし風向きがかわっている。いつもだと、亭主の胸ぐらをつかまえて、派手なところをみせるのが、こんやは妙に陰にこもって、 「辰つぁんも、豆さんも、ながらくお世話になりましたね。あたしのようなものでも、あねごあねごと立ててくれて、あたしゃほんとにうれしかったよ。礼をいいますよ。尼になっても、尼になっても……」 「ね、ねえさん、おまえさんなにをいうんだえ。さっきから、冗談だとおもってきいてりゃ、おまえさん本気でそんなことをいってるのかえ」 「あほらしい、尼になるなんて、縁起の悪いこといわんといておくれやす。また、親分も親分や、あねさんがあないにいうていやはるのに、少しは止めはったらどうだすいな」  辰と豆六こそ災難で、これも親分子分のよしみとあれば、止めだてしないわけにはいかない。  佐七は寝床でふてくされたまま、 「いいから、ほっとけ。出ていくというんなら、出ていかせればいいじゃないか」 「辰つぁんも、豆さんも、とめてくれるのはありがたいけれど、親分がああいう心根じゃ、しょせん見込みはありません。豆さんッ、そこを離しておくれッ」  さあ、はじまった。がぜん、お粂の声が巽上《たつみあ》がりにはねあがったから、豆六はあわをくらって、 「ま、ま、あねさん、どないしたもんや。親分もこんやは虫のいどころが悪いもんやで、あんなこといやはりまんねん。それをいちいち、気にすることおまへんやないか。あ、そないに引っ張ったら、そでが千切れるがな。なんぎやなあ。兄い、あんたからもなんとかいうてえな」 「あねさん、あねさん、もう少し気をしずめたらどうですえ。親分もこんやはきまりが悪いもんだから、ああしてすねていなさるが、心の中じゃ、あねさんにほれて、ほれて、ほれぬいてるんだ。ま、ま、今夜のところはそういわずに……」 「いいえ、いいえ、辰つぁんのことばだけどね。親分はさっき、なんといいなすった。浮気は亭主の甲斐性《かいしょう》だ。それをいちいちやき立てるような女房を持っていちゃア、お玉が池の人形佐七の顔にかかわる、面汚しだと……はい、親分はそうおっしゃった。はい、おっしゃいましたよ。だいじな亭主から面汚しだといわれては、女房として立つ瀬がない。あたしゃ暇をもらいます。今夜かぎり尼になってしまいます」 「お粂、おまえまだそこで、うだうだいっているのか、尼になるのならさっさとなりゃアがれ」 「あッ、く、くやしいッ」  さあ、たいへん、さっきから、おさえにおさえていたヒステリーが、ついに爆発したからたまらない。  豆六のとらえたそでを、ビリビリと引き千切ると、おりから降りだした雨のなかへ、まっしぐらにとび出したから、驚いたのは豆六だ。 「あ、ね、あねさん、待っとくれやす。みっともない、はだしでとび出したりしやはって、兄い、親分のほうはたのんまっせ」  と、あと追っかけてとび出したが、秋の雨夜のまっ暗がり、またたくまにお粂の姿を見うしなって、ぼんやり家へかえってみると、あいかわらずふて寝をした佐七のまくらもとで、きんちゃくの辰はおもしろくもなさそうに、鼻毛をぬいては手の甲にうえている。 「兄い、どないしまほ。あねさん、とうとうどこかへいてしまはったぜ」 「いいってことよ、ほっておきねえ」  きんちゃくの辰はいつになく、冷にして淡である。 「そんなこというたかて、あねさん、尼になるちゅうてたやおまへんか」 「尼になる、尼になるという女で、ほんとに尼になったためしがねえ。よしんば、また、尼になったところでいいじゃアねえか。親分はきれいさっぱり別れるとおっしゃるんだ。親分といっしょにいてこそあねごだが、別れてしまえばあかの他人、尼になろうが、坊主になろうが、おいらの知ったことじゃアねえ」 「そんなこというたら、身もふたもあらへんがな。そら尼になるちゅうのんはうそかもしれん。そやけど、なんせまっ暗がりのこの雨や。近所にはお茶の水ちゅう難所もある。女心の、もしかっとして……」  とたんに、佐七がぎっくりと布団からからだを起こしたが、きんちゃくの辰はそしらぬかおで、 「そうよなア、あそこは身投げにもってこいだ。このあいだも、夫婦げんかでとび出した女房が、あそこからとびこんだという話だったなア」  いいながら、辰はしきりに豆六に、なにやら怪電波を送っている。  佐七は声をふるわせて、 「辰、豆六! そ、それゃほんとか。お粂はそれほど取りのぼせていたか」  豆六は辰の電波に、にわかにぐっと納まって、 「へえ、そらもう……あの調子では、どないな無分別なことしやはるかもしれまへん。ひょっとすると、いまごろは、お茶の水の崖《がけ》のうえからまっさかさまに……南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」  もとより冗談だとは思うけれど、こうきいては人形佐七、いても立ってもいられない。浮気はときどきするけれど、お粂にゃぞっこんほれているんで、 「辰、豆六、後生だ、お粂を探してきてくれ」 「あれ、そりゃどういうわけですえ。おまえさんもうあのひととは、きれいさっぱり縁切って、なんの未練もねえはずじゃありませんか。あのひとがのどをつこうが、首をくくろうが、さてはまた、お茶の水からざんぶりとびこもうが……」 「そ、そんな、縁起でもねえこといわねえでくれ。辰、豆六、手をついてあやまった。あやまった。意地の悪いこといわねえで、頼む、たのむ、お粂を探して、つれてきてくれ」  おろおろ声で、人形佐七が子分のまえに両手をついてあやまったというのだから、いやはや、捕り物の名人もだらしのない話で。  水も垂れそうな美少年   ——すそもたもともどろだらけやおまへんか  こちらはお粂である。  やきもちが昂《こう》じたあげくの痴話げんか、売りことばに買いことばがしだいに募って、かっとばかりにとび出したが、さて、いくさきはいつもきまっているのである。  佐七の親代わりをつとめている音羽の親分、このしろ吉兵衛《きちべえ》のところへ泣きこんでいくつもりで、お玉が池から馬《うま》の鞍横町《くらよこちょう》、八辻《やつじ》ガ原《はら》から(筋違御門(すじちがいごもん)を右にみて、やってきたのは昌平橋《しょうへいばし》。  ちょうど秋入梅《あきついり》のころである。雨はいよいよ激しくなって、風さえすこし出てきたようす。足袋はだしの足の裏のつめたさが、ひしひしと身に迫るのだが、お粂はそんなことも構いつけない。なにしろ、心のなかには、瞋恚《しんい》の炎がもえているのである。  それにしても、なりふり構わぬとはこのことである。時刻はまさに五つ半(九時)。人通りもバッタリとだえたじぶんだから、いいようなものの、ひとに見られたら、正気のさたとは思えなかったろう。  やがて、お茶の水の崖《がけ》をへだてたむこうの岸に、聖堂の屋根がくろぐろと、いつもの晩ならみえてくるところだが、墨を流したような今宵《こよい》のやみ、ましてや篠《しの》つく雨のまっ暗がり。切りたてたようなお茶の水の断崖《だんがい》に、風にさわぐ松の音ばかりがものすごく……。  お粂はそういうやみのなかを、胸にもえる瞋恚《しんい》の炎を抱いて、ただ、ひた走りに走っていたが、だしぬけに、どんとまえからぶつかったやつがある。 「まぬけめッ、まごまごするないッ」  どんと強く胸をつかれたうえ、鋭い罵声《ばせい》をあびせかけられたから、さあ、お粂も黙ってはいられない。なにしろ、気が立っているおりからなので、 「あれ、なにをおしだえ」  いきすぎようとするあいての腰にむしゃぶりついて、やみをすかしてよく見れば、怪しむべし、あいては黒鴨《くろがも》仕立ての中間《ちゅうげん》だが、この雨のなか、傘《かさ》もささずに算盤絞《そろばんしぼ》りの手ぬぐいで、頭からすっぽりとほっかぶり。それだけならまだよいが、背に負うているのが一番の大葛籠《おおつづら》で、その葛籠から雨のしずくが垂れている。  そこは岡《おか》っ引《ぴ》きの女房だけに、お粂はたちまち疑念を発した。 「ちょっとお待ち。おまえ、その葛籠をしょってどこへいくんだえ」 「なによッ」 「雨の降るのに傘もささずに、なんともいぶかしいその姿、葛籠のなかを見るまでは、あたしゃここを通さないよ」 「なにをいやァがる。女だてらにしゃらくせえ。じゃまだてすると命がねえぞ」 「おや、利いたふうなことをおいいだね。あたしゃじゃまだてしてみせる気さ。さあ、葛籠をおいてなかをお見せな」  葛籠に手にかけ、お粂が力いっぱい引いたから、そうでなくとも葛籠のおもみで腰のふらついていた中間は、たじたじと二、三歩うしろへたたらを踏んだが、 「あま、てめえほんとにじゃまだてする気か。ようし、こうなったら命はもらった」  男は怒り心頭に発したらしい。ムキになってお粂につかみかかってきたから、こうなっては女の力ではかなわない。二、三合もみあううちに、お粂は足を踏みすべらし、 「あれえッ、ひと殺しイ……」  やみをつんざく悲鳴をのこして、お茶の水の崖《がけ》のうえからまっさかさま……落ちたら命はなかったが、さいわい崖っぷちから二、三間下のところに生えている木の根にあやうくつかまった。  中間はそれと気がつかず、 「ざまア見やがれ。きじも鳴かずばうたれまいに」  舌打ちしながら、きょろきょろあたりを見まわしている。もとより篠《しの》つく雨のこの夜更け、ひと通りとてあろうはずはない。松吹く風の音ばかりが、おどろおどろとものすごい。 「ようし、それじゃこのまに……おっとしょ、どっこいしょとおいでなすった」  口のうちでつぶやきながら、背中から大葛籠をおろしたのは、どうやら、崖のうけから突きおとすつもりらしい。  と、このときだ。さっきの粂の悲鳴をききつけたのか、急ぎ足にこの場へ駆けつけてきたものがある。これまた篠つく雨にズブぬれになっていたが、中間の姿をみると足をとどめて、じっとようすをうかがっている。それとはしらぬ黒鴨仕立てのくだんの中間、 「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏……恨みをいうならあのひとにいえ」  いままさにあの大葛籠を崖のうえから突きおとそうとするところへ、 「待て!」  と、躍り出たのは、お粂の悲鳴に駆けつけてきた人物である。やにわにあいての腕をおさえたから、おどろいたのは黒鴨仕立て。  ぎょっとばかりに振りかえると、これがまた意外にも、七段目の力弥《りきや》が抜けだしてきたような色若衆、お納戸いろのほおかぶりに、袴《はかま》の股立《ももだち》ちきりりと取って、水の垂れるような美少年なのである。 「おやおや、こんやはよっぽど妙なやつがとびだす晩だ。おい、兄さん、こんなところを見られたからにゃ、かわいそうだが命はもらった」  匕首《あいくち》抜いて突いてかかるのを、色若衆はからだをひらいて、ぴしりとあいての利き腕をうつと、顔に似合わぬ強い力だ。これがよっぽどこたえたとみえて、中間はポロリと匕首を取りおとした。 「あッ、痛ッこ、こん畜生!」  こんどは素手でむしゃぶりつくのを、色若衆がからだをひねったかとみると、中間のからだはもんどり打って、どしんと落ちたのは葛籠のうえ。葛籠のふたがメリメリと裂けて、その裂けめから半身のぞかせたのが、なんと女の死体のようである。 「あ、こ、これは……」  色若衆がおもわずひるんだそのすきに、黒鴨仕立ての中間は、かなわぬあいてと見てとったのか、くるりときびすを旋回させると、降りしきる雨のなかを一目散、いやその逃げ足のはやいこと、またたくまに姿はやみにみえなくなた。  あと見送って、くだんの美少年、おそるおそる葛籠のそばへすり寄ると、女の死体を抱きおこし、おどろに乱れた髪をかきあげ、しばらく女の顔をあらためていたが、やがて、あっとのけぞるばかりに驚いて、 「ああ、おまえは……」  なにかいおうとしたときである。秋の長雨でゆるんだ坂を、ようやく崖《がけ》ぶちまではいあがって、さきほどよりのいちぶしじゅうを見ていたお粂が、 「あの、もし……」  と、声をかけたそのとたん、色若衆のほおかぶりがバラリととけて、たがいに見かわす顔と顔。 「あっ!」  と、色若衆は小声でさけぶと、とっさの機転のそでびょうぶ、顔をかくして一目散、またたくまに姿はやみにのまれてしまった。 「あっ、なアんだ。そこにいるのは、あねさんじゃありませんか」 「ああ、ほんまや、ほんまや、あねさんや、あねさんや。あんたいったい、どないしやはってん。たもともすそもどろだらけやおまへんか」 「わっ、あねさん、まさか、おまえさん、ほんとにここから身投げをなすったんじゃ……」  ちょうちんをさしつけながらやってきたのは辰と豆六。迷子の迷子のあねさんを、やっと探しあてたのはよいが、そのあねさんはどろだらけだから、辰と豆六が肝をつぶしたのもむりはない。 「あねさん、いってえどうしたんです。おまえさん、まさかふ抜けになったんじゃ……」 「ほんまにいな。さあ、親分も心配してはりまっさかい、わてらといっしょに帰りまほ」  しかし、お粂は動かない。降りしきる雨にうたれながら、ぼうぜんとしてある一点を凝視している。ある一点とは、いうまでもなく、いま中間の落としていった葛籠《つづら》の裂けめ。 「あねさん、あねさん、いってえおまえさん、どうなすったんで……」  といいながら、そばへちかよってきた辰と豆六、お粂に気をとられていたから、足下がお留守になっていた。ふたりいっしょに葛籠につまずき、ちょうちんのあかりでひょいと裂け目を見なおして、 「わっ、こ、こ、これゃ……」  いや、犬もくわぬ夫婦げんかから、お粂もとんだ事件につきあたったものだが、それにしても、この事件がときによっては氏神で、お粂佐七の夫婦げんかは、それきりチョンとあいなって、その夜は無事におさまったが、さて、そのあとが大変である。  江戸|長崎《ながさき》捕り物くらべ   ——うかうかすると切腹ものだ 「佐七か、よくまいったな。きょうそのほうを呼びよせたのはほかでもない。ちと困ったことが持ちあがってな」  お粂佐七のご両人のあいだに、あの夫婦げんかがあってから三日のちのことである。  葛籠《つづら》事件の探索に八方奔走している佐七のところへ、かねてよりごひいきにあずかっている与力、神崎甚五郎《かんざきじんごろう》から、至急出頭するようにとの使者があったので、取るものもとりあえず、駆けつけてみると、甚五郎はなにやら、ひとかたならぬ心痛の面持ちだった。 「へえ、その困ったこととおっしゃいますのは?」 「さればさ、それが、このあいだお茶の水で発見された葛籠詰めの美人に関係しているのだが……」 「へえ、あの一件がなにか……?」 「いや、聞けば、あの死体はいま湯島の境内にかかっている南京《ナンキン》手妻の姉妹のうち、松鶴《しょうかく》と申すものであるということだが、それはしかと間違いないな」 「へえ、それはきのうも申し上げましたとおり、こんりんざい間違いはございませぬ。辰や豆六もよく存じておりましたが、念のためにもと、一座のものにも見せたところ、たしかに姉の松鶴だと申しております」  そのころ、湯島天神の境内には、南京手妻の一座がかかっていて、江戸中の人気を一手にさらっていた。  なぜこの南京手妻がそれほど人気があったかというと、売り物の太夫《たゆう》というのが、松鶴、竹翠《ちくすい》といって日華混血の美人姉妹。これだけでも十分江戸っ子の好奇心をひくねうちがあるのに、しかもこれがふたごときていて、顔形なら、姿なら、似たりや似たり花あやめ、まったくうりふたつときているから、これがいよいよめずらしがられて、 「おい、八つぁん、おめえ湯島の南京手妻を見たかえ。あれ、まだ見ねえんだと? こいつアとんだ江戸っ子のつらよごしだ。いまどき、松鶴、竹翠のふたごを知らねえようじゃ、江戸っ子の風上にもおけねえとわらわれるぜ。見てこい、見てこい、うりふたつのべっぴんがふたり、舞台にならんで、チーチーパッパと歌うところがたまえらねえ」  というようなわけで、物見高いは都のつね、ものずきな江戸っ子の兄い連中、いまやだれひとり、松鶴、竹翠ふたごの姉妹の顔をしらぬものはないといわれるくらい。  まして、走りものときたら人後におちぬ辰と豆六、この南京手妻の大ファンときていたから、御茶の水で葛籠詰めの死体を見るより、ただちにこれが松鶴、竹翠のふたご姉妹のうち、いずれかであるとわかったというわけである。 「なるほど、そう聞けば、ふたごのうちのひとりにはちがいあるまいが、それにしても松鶴とはどうしてわかった。聞けば、ふたりはいずれがいずれとも、見分けがつかぬほどよく似ていたと申すではないか」 「さようでございます。仰せのとおり、辰や豆六には、そこまでの見分けはつきませんでしたが、太夫元の話によると、このふたりには彫り物があるというんです」 「ああ、なるほど」 「おそらく、ふたごの親たちが、あまりよく似ているところから、取りちがえてはならぬとあって、うまれたときに彫ったものでございましょう。松鶴には松に鶴《つる》、竹翠には竹に雀《すずめ》を彫ったのでございますね」 「なるほど、その名にちなんだ彫り物をしたわけじゃな」 「さようでございます。そういう話を太夫元から聞きましたゆえ、さっそく死体をあらためたところ、まぎれもなく左の腕に、松に鶴の彫り物がございますので、さらば、あの死体が松鶴であることは、もう一点の疑いの余地はございませぬ」 「なるほど、そう聞いて疑いもはれた。ときに、妹の竹翠のゆくえがわからぬということだったが、まだ手がかりはないか」 「へえ、それがまことに残念ながら、いまだにかいもく手がかりがございません。じつにふしぎな事件でございまして、松鶴が殺された晩に、妹の竹翠もゆくえ不明になっている。そこいらになぞを解くかぎがあるんじゃないかと、八方手をつくしているでございますが、いまのところまったく五里霧中で、まことに面目しだいもございません」 「いや、それは事件発生以来まだ日の浅いことゆえ、むりとは申さぬが、佐七、ここに困ったことが持ちあがった」 「困ったこととおっしゃいますと……?」 「悪くすると、江戸町奉行の面目にかかわることになるかもしれぬ一大事が出来《しゅったい》いたした」 「なんでございますって、だんな、それはいったいどういうことでございます?」 「さればさ、この事件について、江戸町奉行所へ挑戦《ちょうせん》してきたものがあるんだ。つまり、腕くらべだな」 「腕くらべ……でございますって?」 「さよう、事件のなぞをどちらがはやく解きほぐすか、江戸の町奉行所と腕くらべがいたしたいと、申し込んでまいったものがある」 「これはまた異なこと。してして、あいてはいかなる人物でございます」 「さればさ、そのほうも目下、長崎奉行|跡部山城守殿《あとべやましろのかみどの》が、当江戸表にご滞在中であることは存じているであろうな」 「はい、それは承知しておりますが……」 「その山城守殿について出府中の長崎通辞、鵜飼高麗十郎《うがいこまじゅうろう》と申す御仁が、腕くらべをいたしたいと申してまいった」  これを聞いて、佐七はあいた口がふさがらなかったが、神崎甚五郎の話すところによると、こうなのである。  南京手妻の松鶴、竹翠というのは、もとは長崎出身で、その地方でもたいそう人気があった。長崎奉行所つきの役人なども、みんなこのふたごのひいきだったが、とりわけ鵜飼高麗十郎は、とくにこの姉妹に目をかけていたから、このたびの出府にさいしても、ぜひ江戸でふたりに会っていこうと、楽しんでいたところが、思いがけないこの事件である。 「しかも、下手人の見当もつかぬとあって、鵜飼高麗十郎が業を煮やされたといえるのだな。このうえはぜひとも、じぶんの手でこの事件を解決したいと、長崎奉行、跡部山城守様まで申しいでられたのだな」  神崎甚五郎はいかにもにがにがしげな口ぶりで、 「ところが、山城守様というかたが、ひとにしられた粋人だから、これはおもしろい、しからば、江戸長崎の奉行所の面目をかけて、腕くらべをしたらよかろうと、当奉行所へ挑戦してまいられたのだ」 「なるほど。それは……」 「こうなれば、当方としても、引くにひかれぬ男の意地だ。よろしいとばかりに引き受けたが、あいては素人もおんなじ長崎通辞、もし、これにおくれをとったとあらば、江戸町奉行所の面目はまるつぶれとなる」 「それはそうでございますね」 「そこで、頼みとするのは、佐七、そのほうばかりだ。かならずともに、この腕くらべ、おくれをとってはあいならぬぞ。神崎甚五郎、このとおりじゃ」  と、甚五郎に手をついて頼まれたから、これでは佐七も、うかうかすると切腹ものである。  奇怪替え玉人形   ——あねさんに精気を吸いとられたんで  さあ、たいへんなことになったものである。  事件はいっけん、些細《ささい》な市井のできごととしかみえないが、その背後には、江戸と長崎、両奉行の名誉がかけられているのだから、さすがの佐七もうっかりしてはいられない。  大急ぎで、神崎甚五郎のお役宅をおいとまして、お玉が池へかえってくると、お粂をはじめ辰と豆六にこの話を語ってきかせたから、さあ、たいへん、家内はケンケンゴウゴウ、はちの巣をつついたような騒ぎとなった。 「なんだ、なんだ、なんだ。べらぼうめ、捕り物の腕くらべがしてえと……? どこのどいつが身のほどしらずに、そんなバカなことをぬかしやがるんだ。ヘン、井のなかのかわず大海をしらずとはまったくこのこと。お江戸にゃアな、捕り物にかけちゃ三国一といわれる極めつきの、お玉が池の人形佐七という、れっきとした親分さんのおいでになるのをしらねえのか」 「ほんまや、ほんまや、あほらしい。碁将棋の手合わせちゅうんならまだしおらしおまっけど、捕り物くらべとはすさまじいわ。なあ、親分、なにもこんなこと、あんたがわざわざ出馬しやはることおまへんやないか。あいてはたかが田舎侍や、兄いとわてとでけっこうだっしゃないか」 「うらなり、よくいった。親分、まったく豆六のいうとおりです。こいつはあっしらふたりにまかせておいておくんなせえよ」 「これこれ、失礼なことをいうもんじゃねえ。かりにも江戸の町奉行所をあいてどり、捕り物くらべをしようという人物だ。よっぽど、腕におぼえのあるかたにちがいねえ。油断をしておいておくれをとっちゃア、江戸の恥。ともかく、もういちど湯島の南京手妻をのぞいてみよう。お粂、支度をしてくれ」 「あい」  といったものの、お粂も気が気でない。  悋気《りんき》もひどいが、ほれかたもひとしおの女房お粂、だいじな亭主が、もしやおくれをとってはと、 「おまえさん、しっかりしておくれ。ここでおまえさんがおくれをとったら、あたしゃどうでも……」 「尼になるかえ」 「あっ、これゃアちげえねえ」 「はっはっは、冗談いってる場合じゃねえ。辰、豆六、おれといっしょにこい」 「おっと、合点だ」  と、佐七は辰と豆六を引きつれて、お玉が池をとび出すと、やってきたのは湯島の境内。  ところが、ここに怪しいのは女房お粂だ。  あとに残って、しばらくあごをえりにうずめて、なにやら深い思案にくれていたが、やがてポンとひざをうつと、戸締まりをしていそいそとどこかへ出かけていったから妙である。  そんなこととはゆめにも知らぬ人形佐七、やってきたのは南京手妻。楽屋をのぞくと、なにせかんじんの売りものが、ひとりは殺され、ひとりはゆくえ不明というのだから、一座はまるで火が消えたようである。  あれいらい興行を休んで、きょうも楽屋で額をあつめて、善後策を講じているところだったが、みると、かれらから少しはなれたところに、一種異様の風体をした人物がひかえていて、ギロリ、ギロリとあたりを睥睨《へいげい》している。  としのころは三十七、八というところか、色白の、まゆのひいでた、いかさま人品いやしからぬ侍だが、総髪を肩に垂れたところといい、オランダ・ラシャの巻き羽織といい、首にかけた異国ふうの銀鎖といい、まことに異様な風体だったが、これぞ佐七の挑戦者《ちょうせんしゃ》、長崎通辞の鵜飼高麗十郎であることは、ひとめでそれとしれるのである。  佐七はこちらより腰をかがめて、 「卒爾《そつじ》ながらお尋ね申し上げます。あなたさまが長崎からおみえになった鵜飼高麗十郎さまでいらっしゃいますか」 「おお、いかにも拙者、鵜飼高麗十郎であるが、そういうおてまえは」  鵜飼高麗十郎、ことばつきはもの柔らかだが、なめまわすように佐七を見る目に、なかなかどうして、ゆだんのならぬものがある。 「はい、あっしはお玉が池の佐七と申しまして、十手取りなわを預かりおりますもの、なにとぞお見知りおきくださいますよう」 「おお、いま江戸で名だかい人形佐七とはそのほうか。名前はかねてより聞いておる。このたびは妙なことから、そのほうと腕くらべをいたすことに相成ったが、これも職務だ、勝っても敗れても、あとに恨みののこらぬようにいたしたいものじゃな」 「いえもう、あっしなどが勝てようとは思いません。どうぞこの機会に、オランダ仕込みの捕り物術というやつを、ご伝授ねがいとう存じます」 「あっはっは、これは謙遜《けんそん》いたみいる。拙者こそ当江戸表には盲目もどうぜん。そのほうに教えを請わねばならぬことが多々あろう」 「恐れ入ります」 「ときに、佐七。そのほうなにか手がかりをつかんだかな」 「それが、なかなか……いまのところ、まったく五里霧中でございます。だんなのほうはいかがでございます。なにかもう目鼻が……?」 「とんでもない。拙者とて五里霧中はおなじこと。よしないことに手を出したと、いささか後悔しているところじゃ。あっはっは、お手柔らかにねがいたい」  口では礼儀をつくしているが、どうしてどうして、どちらもゆだんのないことはおなじである。たがいにあいての腹を読もうとするのか、見交わす目と目に火花が散る。 「ときに、だんなえ、妹竹翠のゆくえはおわかりでございますかえ」 「いや、それがわからぬゆえ困却している。しかし、なんでも、聞くところによると、事件の起こる二、三日まえの夜おそく、この楽屋へ訪ねてまいった者があったということ。顔はほおかぶりをしていたゆえ、しかとはわからなかったそうじゃが、お小姓姿のやさ男だったということじゃ」  佐七はおもわずはっとした。  こいつはゆだんがならない。佐七がこのまえ調べたときには、だれひとり、そんなことはいわなかったのに、こいつはどうして聞き出したのだろう。それに、お小姓姿のやさ男とは、もしやあの夜お茶の水で、お粂が見たという、あの色若衆ではあるまいか。  高麗十郎はさぐるように、佐七もおもてを見ていたが、 「佐七、そのほうそのお小姓とやらに、なにか心当たりがあるのかな」 「と、とんでもない。いっこう心当たりはございませんが、しかし、そのお小姓がここへ訪ねてきて、いったい、どうしたというんでございますえ」 「されば、そいつは、松鶴、竹翠の姉妹に会って、楽屋でなにやらひそひそ話、泣いたり笑ったりしていたと申すことだが、それからまもなく起こったのがこんどの事件。まず、そのものこそ、疑わしき人物の筆頭じゃと思われるが、佐七、そのほうはどう思う」 「なるほど。しかし、だんな、そいつが松鶴を殺したとしても、妹の竹翠のほうは、どうしたのでございましょうね」 「されば、その竹翠が問題じゃ。いったい、どこへ姿をくらましたか……」  高麗十郎も困《こう》じはてたような顔色で、ジロリ、ジロリと楽屋のなかを見まわしていたが、やがてなにを見つけたのか、にわかにきっと目をすぼめると、 「や、や、佐七、あれを見よ」 「へっ、へえ、だんな、な、なにか……?」 「あれ、あれ、楽屋のすみに立っているあれなるしろものは何者だ」  ただならぬ高麗十郎のさけび声に、人形佐七と辰と豆六、おもわずハッと振りかえった。  みれば、なるほど、薄暗い楽屋のかたすみ、大道具などごたごたと置きならべたなかに、朦朧《もうろう》と立っている奇怪な影。……唐人|髷《まげ》に唐人衣装、ひっそり立っているその面影は、いまはなき松鶴に生き写し。しかも、気味の悪いことにはその人物、こういう場合にあっても、まゆ毛ひと筋うごかさず、しいんとそこにたたずんでいる。  なんとも妙なその気配に、佐七はつかつかとそばへより、あいてのほおをなでてみて、おもわずちっと舌打ちをした。  人形なのだ。松鶴とそっくりそのままの顔をした人形なのである。  わかった。わかった。これは手妻につかう替え玉人形なのであろう。見物の目をあざむくための手妻のトリック、身替わり人形にちがいない。  そうわかってみれば、なんの変哲もない。鵜飼高麗十郎も佐七のうしろへきて、感心したように人形の出来ばえをみていたが、なに思ったのか、腰なるわき差し抜くよとみるや、いきなり人形の胸に突き立てたから、おどろいたのは佐七である。 「だ、だんな、なにをなさるんで……?」  と、いいかけて、そのままハタと口をつぐんだ。  あれ、見よ。突ったったわき差しの根もとから、なにやら赤黒いものがにじみでてきたかと思うと、みるみるうちにそのしみが、唐人服の赤い袍《うわぎ》をいよいよ赤く染めひろげていくかとみるまに、ポトリと床にしたたり落ちたひと滴。まぎれもなく血の一滴である。 「あっ!」  とさけんで息をのむ佐七の顔を、ジロリとしり目にかけた高麗十郎、いかにも勝ちほこったように、声たからかに、 「あれ、見よ、佐七、竹翠のゆくえはわかったぞ。これを見よ!」  とさけぶとともに、人形の胸からわき差しを引き抜くと、はっしはっしと、人形の頭に峰打ちをくれる。その峰打ちに、がらがらがら、人形の頭部がくずれたかと思うと、そのあとからニョッキリ顔を出したのは、ああ、なんたることぞ、色あおざめた女の、世にも凄惨《せいさん》な顔である。しかも、その顔たるや、いま砕けちった人形と寸分ちがわぬ面影だから、いよいよもって気味がわるい。  遠くのほうからこれを見ていた一座の連中、 「わっ!」  とさけぶと、バラバラと人形のそばへかけよると、 「あっ、こ、これゃ竹翠さんじゃないか」 「こんなところに竹翠さんが……」 「なんでもいいから、はやく人形のなかから引っ張り出すんだ……」  と、くちぐちにわめきながら、人形の胎内から引きずり出したのは、世にもむごたらしい女の死体だ。  死体は素っ裸のまま人形の胎内に封じこまれていたのだが、調べてみると、左の腕にはまがうかたなき竹にすずめの彫り物なのだ。しかも、のどにのこった紫色のひものあとよりみれば、哀れ竹翠、くびり殺されたうえ、この人形のなかに封じこまれたものとみえる。  それにしても、ああ、なんたる慧眼《けいがん》ぞや。  ひとめ人形をみるや、ただちに胎内に秘められた秘密を看破したのだから、高麗十郎の眼力たるや、とうてい人間わざとは思えない。さすがの人形佐七もかぶとをぬいで、降参せざるをえなかった。  こうして、江戸長崎の捕り物くらべ、さいしょの軍配は、みごと長崎にあがったのだから、さあ、おさまらないのは辰と豆六だ。 「親分、親分、どうしたもんです。しっかしておくんなさいよ」 「ほんまや、ほんまや。なあ、兄い」 「なんだ、豆六」 「こないだ、あねさんと大げんかをしやはったあと、雨降って地がかたまったんはええんけど、ここんとこ、少し濃厚すぎるのんとちがいまっか」 「ああ、そうか。いや、そうにちがいねえ。じゃ、親分はあのあねさんに、すっかり精気を吸いとられてしまいなすったんだな」 「きっとそうにちがいおまへんで。親分、あんじょう、ふ抜けになってしまやったんや」 「道理で……明き盲じゃあるめえし、親分、これしきのことがわからねえで、これからさきどうなさるんです」 「どうもけさはからす鳴きが悪いと思たて。親分、あんたはん大丈夫でっか。しっかりしておくれやすや」  辰と豆六のボヤくことしきりである。  忍んできたのは女の影   ——寝ては夢、起きてはうつつ幻の 「いや、辰も豆六も面目ねえ。おまえたちにそういわれると、穴があったらはいりたい」  佐七はすっかり器量をおとして、子分のまえにも頭があがらない。 「それにしても、鵜飼《うがい》さま、はてさて見上げたお腕まえ。あっしゃアつくづく感服いたしました」 「いや、なに、ほんのまぐれ当たりだ」  と、口では謙遜《けんそん》しているものの、そのじつ得意の色はかくし切れない。辰と豆六のくやしさは、いよいよ募るばかりである。 「ときに、佐七、そのほうはこれからどうする所存じゃ」 「さようでございますねえ。さし当たって、これという考えもございませんが、いましばらく、この小屋にいのこってみようかと思います」 「はて、それはまた、どういうわけだな」 「されば、ひとをあやめた下手人というやつは、とかく現場へ舞いもどってくると申しますから、ひょっとすると今宵《こよい》あたり、怪しいやつがようすを見にこねえとも限りません。あっしゃひとつ、それを待ち受けてみようと思いますんで」  高麗十郎はハタと手をたたくと、 「さすがは佐七だ。いや、だれの考えもおなじこと。あっはっは、じつは、拙者もそう考えていたところだ」  聞くなり、辰と豆六は、口をとがらせて、がぜん、ガラガラがなり出した。 「いけねえ、いけねえ、そいつはずるいや。うちの親分のまねをして、手柄を横取りしようなんて、おまえさん、そいつはずるい了見だぜ」 「ほんまや、ほんまや、親分もまた、なんにも競争相手にそないなこと、いちいち教えることおまへんやないか」 「豆六、これゃア、親分、てっきりあねさんにいかれてしまいなすったんだぜ」 「ほんまにそや。わて、なんやら心細うなってきた」  と、またしても、辰と豆六がボヤキ立てるのを、 「てめえらは黙ってろ! いや、鵜飼さま、どうぞこいつらのいうことは、気にしねえでくだせえまし。それじゃひとつ、今宵はここに張りこんで、腕くらべをすることにいたしましょう」  おりから日はとっぷりと暮れはてて、雨もよいの小屋のなかはいよいよ暗く、なんとやら物《もの》の怪《け》を誘うようである。  相談きまった人形佐七に鵜飼高麗十郎、一座のものに命をふくめて、ひとまず小屋を立ち去らせた。竹翠の死体の発見されたことは、かたく口止めしておいたことはいうまでもない。  こうして、小屋のものが立ち去ったあとに残った四人のものは、くせ者の舞いもどってくるのを待ち伏せしようという寸法だが、まさか、ぼんやり立っているわけにもいかない。  どこかよきかくれ場所もがなと、あたりを見まわしていた鵜飼高麗十郎が、ふと目をとめたのは、あの南京人形である。 「おお、これぞさいわい、拙者はこの人形の胎内にかくれるといたそう」 「え? 人形のなかに……?」 「さよう。下手人はまだ、竹翠の死体が発見されたことはしらぬはず。しからば、かならず、この人形を調べにくるにきまっている。そこをすかさず、拙者がとっておさえる所存だ。なあに、顔のこわれているところは、こうして布をかぶせて、かくしておけば子細はない」  ああ、またしても、またしても、鵜飼高麗十郎のすばしっこさ。せんをこされた人形佐七、いかにも残念そうだから、そばでみている辰と豆六、いよいよもって気が気でない。 「親分、親分、大丈夫ですかえ」 「親分、いっそのことかぶとをぬいで、この捕り物くらべ、願いさげにしやはったらどうだす」 「そうだ、そうだ、急に血の道が起こったとか、持病の癪《しゃく》がさしこんできたとか……」 「あっはっは、お粂じゃあるめえし……」  と、佐七はにが笑いをしながら、 「なあに、いいってことよ、ああ、ちょうどさいわい、そこにびょうぶがあらア。こちとらはそのびょうぶのうしろに隠れているとしよう」 「ちっ、びょうぶのかげか」 「平凡やな」  と、愚痴タラダラの辰と豆六を押しこんで、親分子分の三人は、びょうぶの陰にかくれることになった。  かくしてやがて半刻《はんとき》、一刻……時刻ははやもう五つ半(九時)。どこかで鐘の音もものすごく、いったんやんだ時雨がまた、バラバラと葭簀《よしず》をうつ音も妙にわびしく、まっくらな小屋のなかには、陰森たる空気が漂うている。  と、このときだ。ひたひたと、ぬかるみを踏むかるい足音が近づいてきたかとおもうと、やがてだれやら、楽屋のなかへ忍びこんでくるようすに、佐七をはじめ辰と豆六、おもわず手に汗にぎったが、そんなこととは知らぬが仏のくせ者は、まっ暗な小屋のなかに立って、しばらくあたりのようすをうかがっているらしかったが、やがて押し殺したような声で、 「金弥《きんや》さん、金弥さん」  と呼ぶ声をきくと、なんとこれが女ではなか。  女はふた声ほど男の名を呼んで、あとしばらく、聞き耳を立てているようすだったが、また思い迫ったような調子で、 「金弥さん、金弥さん、あなたここにもいらしゃらないの」  まっ暗なのでどんな女かわからないが、ひどく失望したらしく、がっかりとしたような声で、 「金弥さん、かくれているなら出てきてください。ひとめあたしに顔を見せてくださいな。このあいだお茶の水で、おまえに会ってからというものは、寝ては夢、起きてはうつつまぼろしの、おまえのことがかたときも忘れられないこのあたし……」  女はそこで絶句したのか、しばらくことばがとぎれたが、またやるせなさそうにあとをつづけて、 「あのときおまえが深川寺町の安養寺へ訪ねてきてくれとおっしゃったゆえ、たったいま、ひとめを忍んでいってみたら、お住持さまのおっしゃるのに、あなたはこちらへきていらっしゃるとやら、あと追っかけてあたしはきました」  女はすすり泣いているようすだが、その声を聞いているうちに、佐七はおもわず小首をかしげた。辰と豆六も妙な顔をしている。  女はまたもやことばをついで、 「夫ある身でこのような大それたこと持ちかけて、さぞやおまえはいやらしい女、と思うであろうけれど、あたしゃこれでも命がけ、こんなところをうちのひとに見られたら、生きてはいられぬこのあたし、金弥さま、金弥さま、あのおうつくしい安養寺の寺小姓金弥さま、あたしを不愍《ふびん》とおぼしめし、どうぞ望みをかなえて、いちどでよいゆえ、思いきり、力いっぱい抱いてください。もし、金弥さま……」  涙ながらに奇怪な女が、るるとしてかきくどいているときだった。だしぬけに、 「ハークション!」  と、南京人形がバカバカしい小屋中にひびきわたるようなくさめをしたからたまらない。 「あれえっ!」  とさけんだくだんの女、いきなりさっと人形におどりかかると、とっさの機転で、ごろりとこれをうつむきにひっくりかえすと、バタバタバタ、風のように逃げていく。 「あっ、しまった、畜生、畜生ッ、佐七、佐七、起こしてくれ、くさめをしたのは拙者一代の不覚だ。苦しい、佐七、この人形を起こしてくれ」  あっぱれ名探偵《めいたんてい》もだらしがない。高麗十郎は人形のなかで、身動きもなりかねるのか、しきりにもがいている。  いつもならば、辰と豆六、このときとばかりにがなり立てるのだが、今宵《こよい》ばかりはどうしたものか、石になったように口もきかない。いまにも泣き出しそうな顔色で、佐七の横顔をみつめている。  その佐七も目を血走らせ、きっとかみしめたくちびるに、血がにじんでいるのもものすごい。  押し入れの中の美少年   ——よくも亭主の顔にどろをぬったな  それから半刻《はんとき》ほどのちのことである。どこで飲んだか人形佐七、べろんべろんに酔っぱらい、かえってきたのはお玉が池。 「親分、親分、とっくり話を聞かねえうちは、かりそめにも、手荒なまねはしねえでくださいよ。あのあねさんに限ってなあ、豆六」 「そや、そや、これはなんぞ、わけがあるにちがいおまへん。そやけど、けったいな話やなあ」  辰と豆六ははらはらしているが、そんなことばが耳にはいるような佐七ではない。血走った目をやけにすえて、 「ええい、やかましい。黙ってろ。おまえたちの指図はうけぬ。おれの女房だ。重ねておいて四つにする」  がらりと格子を押しひらくと、そのとき、家のどこかでぴしゃりとふすまのしまる音。佐七がおもわずギロリと目を光らせていると、そこへばたばた出てきたのは女房のお粂、なんとなく上気したおももちで、 「あれ、おまえさんかえ。思いがけなく早かったじゃないか。あたしゃまた南京手妻の一件で、今夜はうんと遅くなるんじゃないかと」  いわせもおかず人形佐七、いきなり女房の髻《もとどり》とってひっつかみ、上がりかまちにねじふせると、踏むやらけるやら、いや、もうえらいけんまくである。 「あ、あれえ、お、おまえさん。どうおしだえ。わけもいわずに乱暴な。ああ、苦しい、辰つぁん、豆さん、助けておくれ」  佐七は髻をひっつかんだまま、女房の顔をぎりぎりの畳のうえにすりつけすりつけ、 「どうおしだえとはしらじらしい。こ、この売女《ばいた》め、よくもよくも、亭主の顔にどろをぬりゃアがったなあ」 「お、親分、そ、そんな手荒なことを」 「そや、そや、こら、親分、あねさんのいいぶんも聞いたげな……」 「よるな、よるな、辰も豆六もそばへよると、ただではおかねえ」  佐七は舌端火をふかんばかりの勢いで、 「この売女めに、どろを吐かさにゃアおかねえんだ。これ、お粂、よく聞きゃアがれ。さっきおいらが湯島の境内、南京手妻の楽屋のなかで、張りこんでいるともしらずに、忍びこんできたひとりの女、なにをいうかと聞いてりゃ、金弥とやらいう寺小姓を、ひとめ見てからというものは、寝ては夢、起きてはうつつまぼろしの……」  佐七め、とうとう泣き出しゃアがった。 「つゆかたときも忘れられず、亭主の目をしのんで会いにきたという。そういう女をだれかと見れば、お、お、お粂、き、き、貴様だったなあ」  お粂は無言で泣いている。佐七に髻《もとどり》をひっつかまれたまま、畳に顔をこすりつけ、ただもうたもとをかんで泣いている。お粂の口から、なんとか言い訳があるのではないかと思っていた辰と豆六は、案に相違のお粂の顔を畳におしつけすりつけ、 「このあいだから、なんだかようすがへんだと思った。お茶の水の若衆の人相をきいてみても、しらぬ存ぜぬの一点ばり。しかも、ときどきひとめを忍んでこっそりと、家を抜け出すあやしい素振り、どうもようすがおかしいと思っていたらこのしまつ、お粂、われゃアよくも、亭主の顔にどろを塗りゃアがったなあ」 「あれ、おまえさん、そんなこと……」 「しらぬというのか、存ぜぬとぬかすのか」 「はい、あたしにはまったく、身に覚えのないことでございますわいな」 「ええい、ぬすっとたけだけしいとはてめえのことだ。辰、豆六、構うことはねえから、その押し入れを開けてみろ」 「へえ、豆六、てめえ、開けてみろ」 「わてはいやや、鬼が出るか、じゃが出るか、そんな怖いことわていやだす。兄い、あんた開けなはれ」 「よし、それじゃ、豆六、こうしよう。ふたりでいっしょに開けようじゃねえか」 「あ、さよか。兄いも同罪なら心強い。そんなら開けまっせ。堪忍しとくなはれや」 「なにも謝ることはねえやな。ひイふウのみイ……」  清水の舞台からとびおりる気で、辰と豆六が勢いよくといいたいが、おっかなびっくりでふすまをひらくと、なんと、そこにはこのあいだの色若衆が、まっ青になってふるえているではないか。 「わっ、いたア!」  辰と豆六は、おもわずその場にしりもちついたが、ここにおいて人形佐七、いまや嫉妬《しっと》と激怒の頂点に到達したらしい。怒りにからだをふるわせながら、ポカポカポカ、げんこをかためてお粂のからだに滅多打ちをくらわせながら、 「お粂、これでもしらぬとぬかすのか。亭主のるすに大胆な、かわいい男を引きずりこんで、うぬはなァ」  押し入れのなかでふるえていた色若衆は、あっけにとられてその場のようすをながめていたが、いまの佐七のことばを聞くと、はっとしたおももちで、転げるように押し入れのなかからはい出すと、 「あれ、親分さん」 「えっ?」 「それでは、さっきからおまえさんが焼きもちやいていなさるのは、あたしのことでございますかえ」  あっと佐七は肝をつぶした。それもそのはず、姿かたちは男だが、声を聞くと、なんとこれが女ではないか。 「げ、げ、げ、げ、げっ!」  びっくり仰天した拍子に、佐七もいっぺんに力がぬけた。力がぬけてしりもちついた。しりもちついたまま、あきれたように、色若衆……いや、いまやまさしく、美少女の顔を見守っている。  辰と豆六もあきれかえって、 「ええ、少々ものをお尋ねいたしますが」 「そういうあんさんは、おなごはんだっかいな」 「お恥ずかしゅうございます」  ほおあからめて、その場に手をつくしおらしさ、佐七をはじめ辰と豆六、毒気を抜かれて、 「ありゃ、りゃ、りゃ」  と、しばしことばもなかりけるである。  こいつはいちばん、お粂のやつにしてやられたかと気がついて、佐七はあらためて、美少年じつは美少女の顔を見守っていたが、やがてはっと気がついて、 「や、や、おまえは南京手妻の……?」 「おまえさん、やっと気がついておくれかえ」  畳のうえから、からだをおこした女房お粂は、すまして髪をなでつけたり、乱れたえり元を合わせたり、 「ほんとにおまえさんたら乱暴だねえ、あたしゃ殺されるかと思ったよ」  と、いいながら、うれしそうに佐七により添って、 「そのおかたはねえ、男姿こそしていらっしゃるけれど、ほんとうはお女中で、しかも、南京手妻の松鶴さんや竹翠さんとは三つ子の姉妹、お名前は梅鶯《ばいおう》さんとおっしゃるのさ」 「え、え、なんだと?」  佐七は目をシロクロさせながら、 「そして、お粂、おまえがどうして、それを知っているんだ」 「さあ、それをいわなかったのは悪かったけれど、このあいだお茶の水の暗がりで、ちらりと見かけたこのひとの顔、それがいま評判の南京手妻、松鶴さん、竹翠さんのおふたりさんに生き写しゆえ、これにはなにか子細があるにちがいないと思っているとき目についたのが、その場に落ちていた手紙の上書き」 「ふむ、ふむ。それで……?」 「みると、それには、伝通院、君島|梅之丞《うめのじょう》さままいる、松鶴、竹翠と書いてあるじゃありませんか。さては、あの若衆は、伝通院の君島梅之丞さまというおかたにちがいないと、このあいだからこっそり探していたというのも、みんなおまえに手柄をさせたいため」  お粂はいよいようれしそうに、ぴったり佐七に寄りそったから、さあ、おさまらないのは辰と豆六。 「あねさん、あねさん、それじゃちょっとお伺いいたしますがね」 「はい、はい、辰つぁん、なんでございますえ」 「さっき、南京手妻の楽屋のなかで、なんだか変なひとり言……」 「寝ては夢、起きてはうつつまぼろしのと、えろう血道をあげていやはったが……」 「あれゃいってえどういうわけです」  左右から辰と豆六に詰めよられたが、そのときお粂はすこしも騒がず、 「ほっほっほ、あれはみんな口から出まかせ」 「げっ、そら、また罪な……」 「なんでまた、あないなアホなこといやはってん」 「さあ、それはね、聞けばうちのひとがきょう楽屋で、高麗十郎とやらにおくれをとって、満座のなかで恥をかいたとのこと。さあ、それを聞くとあたしの胸はおさまらない。なんとかして、あいつに仕返ししてやろうと思っていると、どうやら今夜、高麗十郎とうちのひとが、楽屋に張り込みするとのこと。そこで、忍びこんで口から出まかせ、ほっほっほ、いまごろは高麗十郎は、深川寺町安養寺の金弥というのを、血まなこになって探しているにちがいない」 「あ、なアるほど」  辰はポンとひざをうったが、 「しかし、あねさん、それならもっとほかにしゃべりようがありそうなもんじゃありませんか」 「ほんまや、ほんまや、おかげで親分、焼きもやいたりまっ黒こげ、おまけにあねさんも痛い目を見やはったやおまへんか」 「それこそ、こっちの望むところ」 「げっ、それゃまたなんで……」 「だって、いつもいつも、こっちが焼きもちやくばかりじゃつまらないから、たまにはうちのひとにも焼いてもらおうと思ったのさ。おまえさん、よう焼いてくだすった。あたしゃもううれしゅうて、うれしゅうて、おもわず涙が出ましたわいな」 「げっ、それじゃさっき泣いていなすったのは……?」 「あら、うれし泣きだしたんかいな。わて、よういわんわ」  ここにおいて、辰と豆六、頭をかかえて閉口|頓首《とんしゅ》、開いた口がふさがらなかった。佐七は大テレにテレながら、それでもオッホンと納まりかえったところはさすがであった。  これでともかく、お粂佐七の悶着《もんちゃく》はめでたくけりとあいなったが、わからないのは梅鶯の身の上。佐七はさすがにいつまでも女房とでれでれしていない。  やがて男姿の梅鶯にむかい、 「それにしても梅之丞——いや、梅鶯さん、わからないのはおまえさんだ。おまえさん、松鶴、竹翠の姉妹と、三つ子だというのは、ほんとうのことでございますかえ」 「はい、それに間違いございません。親分さん、これをごらんくださいまし」  梅鶯が恥ずかしそうに、たくしあげた左腕をみると、そこにはまぎれもなく梅にうぐいすの彫り物が、色鮮やかにくっきりと……。 「それじゃ、松鶴、竹翠というのは、ふたごのかたわれと思いのほか」 「もひとつおまけの、三つ子であったか。タハハハハ」  辰と豆六、いちいち芝居がかりである。 「親分さん、お聞きくださいまし。こういうわけでございます」  と、梅鶯が涙ながらに語ったところによるとこうである。  松鶴、竹翠、梅鶯の三人の父は、清人《シンじん》呉芳といって、長崎にいるうち、丸山の遊女となじみ、これを受け出して、同棲《どうせい》しているうちに、ふたりのあいだに産まれたのが、松鶴、竹翠、梅鶯の三つ子であった。この三つ子がいまだ幼いうちに、父の呉芳は妻子をすてて、故郷|南京《ナンキン》へかえってしまった。  三つ子の母は嘆きのあまり発狂自殺、それからのちの三つ子のうえには、いうにいわれぬ苦難の日がつづいたが、ひととせ、長崎へ押しよせてきたのが大津波である。 「そのとき、わたくしはふたりの姉と生き別れ、いうにいわれぬ苦労の年月を送るうち……」  江戸にどうやらふたりの姉がいるらしいときき、こちらへ下ってきたのだが、街道筋は危ないと、男姿でくだってくる途中、病で苦しんでいるところを、伝通院の住職に救われたのである。 「わたくしを救ってくだすったお坊様は、あくまでわたくしを男と思いこんでいらっしゃいます。しかも、あいてはお寺様ゆえ女は禁物、そこでとうとう、きょうが日まで、若衆姿でとおしてまいりました」 「しかし、それは梅鶯さん、おかしいじゃねえか」  と、そばからくちばしをはさんだのはきんちゃくの辰。 「それゃ、ちょっと見たところじゃ若衆だが、ひと声聞きゃ女とわからあ」 「そや、そや、あんた、そないなこというて、伝通院のその坊主と……」 「控えろ!」  大喝《たいかつ》一声、怒鳴りつけたのは佐七である。 「辰も豆六も、よけいなくちばしをいれるんじゃねえ。こちとらはお寺社の係たアちがうんだ。畑違いの詮議立《せんぎだ》ては無用と思え。梅鶯さん」 「は、はい……」 「こちとらのお役目は、おまえさんの姉さんたちを殺した下手人を探し出すことだ。よけいな詮議立てはしねえから安心しな」 「親分さん、あ、ありがとうございます」  梅鶯のほおにつるりとひと滴、涙がすべって落ちたのは、難儀をすくってくれたその坊主と、たたけばほこりのでる仲になっているのだろう。 「それはとにかくとして、おまえさんは姉さんがたにお会いなすったかえ」 「はい、このあいだ、湯島で評判のたかい南京手妻の姉妹が、どうやら姉とわかったので、訪ねていって会いました。しかし、その喜びもつかのま、ふたりの姉はあのようにむざんの最期」  梅鶯はわっとその場に泣き伏した。 「ほんとにお気の毒でございます。しかし、おまえさん、その下手人について、なにか心当たりはありませんかえ」 「はい、そのときふたりの姉が申しますのに、うそかまことか存じませぬが、父の呉芳がせんだって、南京で死んだということでございますが、そのとき、さすがにわたくしたちのことを思い出したのか、たくさんなお金を持たせて、その使いのものが長崎で、わたくしたちを探しているとのこと。ちかいうちに姉妹三人、長崎へかえろうと約束をいたしましたが、それがこんなことになってしまって……」 「それにしても、梅鶯さん、こないだお茶の水で、松鶴さんの死体を詰めた葛籠《つづら》へいきあわせなすったのは、ありゃいったいどういうわけだえ。まさか偶然とは思えねえが……」 「はい、あれはこういうわけでございます」  あの日、松鶴、竹翠のふたりの姉妹が連名で、君島梅之丞あてに手紙をよこしたのである。  それによると、今夜五つ(八時)駿河台《するがだい》のこれこれこういう屋敷へ忍んでくるようにと、ていねいに地図まで添えて封入してあった。そこで、指図どおり忍んでいくと……。 「なんと、手紙にあるうちは空き屋敷ではございませんか。それにはわたくしも驚きましたが、それでも、おそるおそる、なかへ忍びこんだのでございます。そしたら……」 「そしたら……」 「はい、さいわい、わたくしふところぢょうちんを用意しておりましたので、それをたよりに、荒れはてた奥の座敷まではいりこみました。すると、そこに大きな葛籠がおいてございます。わたくしなんとなく胸騒ぎがいたしまして、その葛籠のふたを開けようとすると……」 「ふむ、ふむ、葛籠のふたを開けようとすると……?」 「とつぜん、だれかにふところぢょうちんをたたき落とされてしまいました。あっとおどろいて、振りかえろうとするやさき、なにやらのどにまきついてまいりました」 「だれかがおまえさんを、くびり殺そうとしたんだね。それで、そいつはどういう人相風体だったえ」 「それが、ちょうちん消えてうるしのやみ……それに、うしろから絞められたものでございますから……」 「しかし、おまえさんはどうしてそれを、のがれなすったんだ」 「それというのが、暗がりのなかのことですから、ひもがうまくのどにかからなかったのでございます。それに、この小さな刀でございますが……」  と、梅鶯は腰から守り刀を鞘《さや》ごとぬくと、 「これはお世話になっておりますお寺様からちょうだいしたのでございますが、それがそのとき役に立ちました。これを抜いて逆手に持って、しゃにむに、うしろ突きについておりますと、それがあいての腕のどこかを突いたらしく、あっと叫んで手がゆるみました。そのまにやっと難をのがれて、空き屋敷をとび出したのでございます」 「なるほど、それは運がよかった。しかし、お茶の水のいきさつは……?」 「あれはかようでございます。空き屋敷をとび出したものの、わたくしにはあのへんの地理はかいもくわかりません。ましてや、まっ暗がりの雨のなか、道に迷ってまごまごしているうちに、やっとたどりついたのがお茶の水。すると、まえをいく怪しい男が葛籠を背負うております。気のせいか、さっき空き屋敷で見た葛籠のように思われて……」 「それで、あとをつけていなすったのか」 「はい、そしたらそこへ、このおかみさんがとび出してこられて……」 「ふむ、ふむ、それからあとはお粂から聞いたが、おまえさん、なかなか腕が立つというじゃアないか」 「お恥ずかしゅうございます。それにしても、ふたりの姉たちはわたくしよりもっと腕が立つはずでございます。それにもかかわらず、あんなにやすやす殺されたのは……」 「よっぽどうまく、あいてにだまされたんだろうな」  さて、そううまうまと松鶴、竹翠を欺いたのは、いったいだれかと、佐七は腕をこまぬいた。  わなにかかったくせ者   ——家でも女房と虚々実々の捕り物くらべ  それから数日のちのことである。  松鶴、竹翠の姉妹が、非業の最期をとげていらい、いちじ火の消えたようにさびれていた南京手妻の一座に、ちかごろ末娘の梅鶯が出るというので、いや、もうたいした評判だ。  なにせ、うりふたつのふたごというので評判をとっていたのが、じつをただせば、三つ子であったというだけでも、大いにひとの好奇心をそそったところへ、これがまた、似たりや似たり、亡くなったふたりの姉に生き写しというのだから、物好きな江戸っ子が、わっとわいたのもむりはない。  おかげで、太夫《たゆう》元は大ほくほくだが、いうまでもなくこれは人形佐七の深慮遠謀。松鶴、竹翠を殺した下手人は、かならずや末娘の梅鶯のいのちを、もういちどねらうにちがいないと、さてこそ、日夜その身辺に網をはっていたが、はたせるかな。  梅鶯が小屋へ出るようになってから、七日目の夜のことである。梅鶯の泊まっている旅籠屋《はたごや》丸十の裏木戸に、そっと忍びよったくせ者がある。  黒装束に火事場|頭巾《ずきん》、手にふところ龕灯《がんどう》をもっているところをみると、よほど心得のあるやつらしい。しばらくあたりのようすをうかがっていたが、やがて、するすると、忍び返しをのりこえたかと思うと、ひらりと屋根へとびうつった。  それにしても、この丸十の離れはぜんぶ貸し切りになっていて、そこには南京手妻の一座のうち、頭だったものが数名、寝泊まりをしているのである。ところが、あいにくその晩にかぎって、ひいきの客からお座敷がかかって、それらの連中は、みんな出払ってるすだった。  梅鶯もむろん招かれていたのだが、その晩はすこし風邪ぎみとかで、お座敷をことわって、宵《よい》からはやく臥戸《ふしど》にはいっていたのである。  もし、このくせ者が、梅鶯をねらって忍びこんだとしたら、そいつはよほど一座の消息に通じているものでなければならない。  そんなことと知るやしらずや、梅鶯は離れの二階でいま昏々《こんこん》とねむっている。六畳のほうには、梅鶯の弟子の、梅花というのがねることになっているのだが、梅花もお座敷によばれているのか、部屋のなかはもぬけのからである。  仕合わせよしと、くせ者は六畳から八畳の座敷へすべりこんだ。  まっ暗な座敷のなかに、かすかな寝息が、すやすやとつづいている。ふところ龕灯の光で、座敷のなかをなでまわしていたくせ者は、とつぜん、ぎょっと息をのんでたじろいだ。  ふっくらと、ふくらみをみせた寝床のむこうに、だれやらひとが立っている。  いっしゅんくせ者はしくじったかと、浮き足だったようだったが、それにしてもふしぎなのは、寝床のむこうに立った影が、くせ者の侵入にたいして、声もかけねば、身動きひとつする気配さえないことである。  くせ者は気をとりなおして龕灯の灯を、あやしの影の足下からしだいにうえへ滑らせていったが、やがて光の輪が、怪しのひと影の顔面をとらえると、おもわずほっと、安堵《あんど》の吐息を鼻から漏らした。  竹翠の死体が封じこまれていたあの南京人形なのである。  あのとき、南京人形の顔面は、鵜飼高麗十郎の手によって、そうとうひどく壊されたが、いま見ると、きれいに修理復原されていて、松鶴、竹翠、梅鶯三つ子の姉妹に生き写しの顔が、ほのかな光のなかでわらっている。なんとなく、冷たい、刺すような微笑である。  くせ者はなぜかぶるぶると身ぶるいをすると、もういちどほっとため息をついた。  しかし、それが人形だとわかると、もはやなんの心配もない。くせ者は気をとりなおすと、八畳の座敷へ踏みこんだ。そして、忍びよったのは梅鶯のまくらもと、ふところ龕灯の薄光で、つくづく寝顔をうち見守っていたが、やがてそっと掛け布団をまくりあげ、あいてのそでに手をかけた。  無心に眠っているのか、梅鶯はかすかな寝息を立てていて、いっこう目覚めるようすもない。これさいわいと、くせ者はそろそろそでをまくりあげた。  わかった。わかった。こやつ、しんじつ梅鶯が呉芳の娘であるかどうかを、あの彫り物でたしかめているのだ。  たしかめおわったくせ者は、ふっと龕灯の灯を吹き消すと、ギラリと抜きはなったのは腰なるわき差し、片手に梅鶯の胸をやんわりおさえ、あわやひと突きというとき、とつぜん、やみのなかからむんずとばかり、その利き腕をおさえたものがある。くせ者は頭からざんぶとばかり冷や水を浴びせられたような気持ちだったろう。 「だ、だ、だれだア……」  という声も、舌がもつれてふるえている。 「おれだよ、おまえのうしろに立っている南京人形だ」 「な、な、なに、南京人形……?」 「そうよ、おまえさんの故知にならって、南京人形のなかにかくれて待っていたんだ。わりゃまんまと、わなにかかりゃアがったな」 「わっ、そういう声は人形佐七!」  しくじったりと、くせ者がしゃにむに突いてかかろうとする横合いから、 「姉の敵!」  いままで眠っていたと思った梅鶯が、声もろとも、まくらもとの刀を抜くよりはやく、さっと横に払ったからたまらない。 「ギャッ!」  と、踏みつぶされたかえるのような声をあげて、くせ者がどうとばかりにしりもちをつく気配に、 「梅鶯さん、梅鶯さん、それくらいにしておけ。敵はお上でとってやる。これ、辰、豆六、はやくあかりを持ってこねえか」 「へえ!」  とこたえて、となりの部屋の押し入れからもぞもぞとはい出してきたのは辰と豆六。  行灯《あんどん》に灯をいれて、八畳の座敷へはいってくると、梅鶯のまくらもとには、みごと向こうずねをひと太刀よこになでられた黒装束覆面のくせ者が、利き腕をさか手にとられ、佐七のひざの下に組しかれていた。 「辰、くせ者の頭巾《ずきん》をとってみろ」 「へえ、この野郎!」  辰がいせいよく頭巾をもぎとったそのとたん、豆六がすっとんきょうな声を、頭のてっぺんから突っ走らせた。 「わっ、こ、こら、高麗十郎やおまへんか」  いかにもそれは長崎通辞、あの腕くらべの競争者たる鵜飼高麗十郎だった。 「——というわけで、高麗十郎こそ下手人だと申すのだな。いやはや、拙者にはとんとわけがわからない」  その翌日のことである。  佐七からいさいの報告をきいた神崎甚五郎は、あまりの意外さに、はとが豆鉄砲をくらったように目をパチクリ。 「いや、そのお驚きはごもっともでございますが、梅鶯の話によると、あの鵜飼高麗十郎というのは、どうやら三つ子の姉妹にとっては、母方の叔父《おじ》にあたるらしいということでございます」 「なるほど。それじゃ、ねらうところは、呉芳の残した身代か」 「どうもそうらしゅうございます。聞くところによると、三つ子がすでに死にたえていたさいは、呉芳の身代が母方の親戚《しんせき》に譲られるということですから、それでこんな悪どいことをやりゃアがったんでしょうね」 「しかし、佐七、そのほうはいつごろから、高麗十郎に目をつけていたんだ」 「あっしゃアあいつが、捕り物くらべなどといどんでまいりましたときから、こいつ少々臭いと思っておりました。そこへあの南京人形のいきさつでございましょう。少し手並みが鮮やかすぎましたよ。いやはや、じぶんで隠した死体を、じぶんが探しだすほど容易なことはございますまい」 「しかし、佐七、あいつはなんだって、捕り物くらべなどと、よけいなことを申し込んでまいったのであろうな」 「それは梅鶯を逃がしたからでございましょう。あっしをけしかけて、梅鶯を探させようという魂胆でございましたろう」  甚五郎はポンとひざをうち、 「なるほど。高麗十郎め、よほど奸智《かんち》にたけたやつではある。しかし、なににしても捕り物くらべ、こちらが勝ってこんなめでたいことはない。ところで、佐七」 「はい」 「この捕り物くらべは、江戸と長崎だけの腕くらべだと思っていたら、聞けばもうひとつ、あいてがあったと申すではないか」 「はて、もうひとつのあいてと申しますと?」 「そら、そら、寝ては夢、起きてはうつつまぼろしの……」 「げっ、辰や豆六が、そんなことを申しましたか」 「聞いたぞ、聞いたぞ。うちでも女房とふたりで、虚々実々の捕り物くらべ。わっはっは、まあ、そうはにかむな。若いうちゃ二度とない。おおいにやれやれ」  ところで、お茶の水へ死体を運んできた折り助だが、こいつはその後、高麗十郎の宿の床下から、死体となって現れたという。おおかた、下郎は口さがないものと、高麗十郎にコロリと一服盛られたらしいが、いや、どこまで悪いやつか底が知れなかった。     丑《うし》の時参り  秋の長雨ちまたの聞き書き   ——それから新さん、腰をぬかした  丑《うし》の時参り——。などといったところで、いまでは知っているひともあるまいが、明治の中期までは、おりおりあったものだそうで。  つまり、ねたみぶかい女などが、嫉妬《しっと》のあまり、あいてをのろい殺そうと、わら人形かなんかをつくって、これでもか、これでもかとばかりに、五寸くぎでお宮の神木かなんかに打ちつけたというのだから、まことに、はや、おそろしいことである。  このお参りをするのが、丑《うし》の時、すなわち、いまの午前二時ときまっていたから、この名が起こったのだそうだが、そのときの風体というのがまたおそろしい。  まず髪をざんばらにして、着物は白無垢《しろむく》、帯も白木綿かなんかの丸ぐけを前ぬすびにして、足には黒塗り高足駄《たかあしだ》、頭にろうそくを三本立て、口には両方に火のついたたいまつをくわえ、胸にはまるい鏡をぶらさげるてえんだから、こしらえだけでもたいへんで、よくよくの決心でなければやれなかったろう。 「でね、新さんもこわごわ、あとをつけていったと思いなさい。なんしろ、草木もねむる丑満時《うしみつどき》でさア、屋の根が三寸さがって、遠寺の鐘の音が、陰にこもってブオオオオーン」 「いやだぜ、源さん、鐘の声音なんかどうでもいいから、手っとりばやくさきを語りねえな。それから、新さん、どうした」 「それから、新さん、腰をぬかした」  神田鎌倉河岸《かんだかまくらがし》で、表の障子に伊勢《いせ》えびがピーンと威勢よくはねてるところを描いたところから、ひと呼んで海老床《えびどこ》。  昔はこの髪結い床というやつが、町内のクラブみたいになっていて、ことにちかごろみたいに、秋の長雨がビショビショと降りつづく季節になると、暇をもてあました若いものがあつまっては、娘新造の品定めなどに花を咲かせていたものだが、きょうはすこし風向きがかわって、話題にのぼっているのが丑《うし》の時参りのうわさ。おおぜい集まって、わいわいいっているのを、ちらりと小耳にはさんだふたりづれがある。 「おい、源さん、なんだかおもしろそうな話だが、丑の時参りがどうしたと?」 「そして、その新さんちゅうのんは、いったいだれやねん」  と、こういえば、いまさらこのふたりづれを、どこの何者と説明するまでもない。  きんちゃくの辰とうらなりの豆六。 「いえ、ついちかごろのことですがね、ほら、むこうの郡代屋敷の裏っかわに、杉《すぎ》の森《もり》神社というのがありましょう」  と、こう目玉をキョロつかせながら、口角あわをとばして語りだしたのは、いわずとしれたこの海老床の、常連中のご常連、いわば海老床のヌシともいうべき、金棒引きの源さん。金棒引きというのは、いまのことばでいえば放送局、神祗釈教恋離別《しんぎしゃくきょうこいりべつ》ご町内のできごとは申すにおよばず、ちまたのうわさなどもこれすべて、源さんの口から放送されるのをつねとする。  その源さんの語るをきくとこうである。  その杉の森神社というのは、名前をきくとりっぱだが、みるときくとは大ちがいで、神主さえいるかいないかわからぬような古社。もっとも、境内はひろくて、名前のとおり杉の大木が亭々《ていてい》とそびえている。  昼でも、そのかいわいはさびしいところで、よく辻強盗《つじごうとう》が出るとか、わかい娘がひっぱりこまれて、けしからんことをされたとか、とかく、ぶっそうなうわさのたえぬところだが、 「そこへ、十日ほどまえから、丑の時参りがでるんです」  これをさいしょに見つけたのは、横山町へんのお店《たな》の手代で、新七という男だったらしい。  その晩、かれは、遊びにいったかえるさ、夜更けて、杉の森神社のそばをとおりかかったが、築地《ついじ》の破れからふとみると、社のうしろの森のなかから、ちらほらとあかりのいろがみえるのである。そこで、新七も怪しんで、こっそりなかへ忍びこんだが、 「それが、おまえさん、丑の時参りの頭にさしたろうそくなんで。そこで新さん、きゃっと叫んで、目をまわしてしまった。——と、こういうんです」 「ふうむ。そんなにすごい顔をしているのか」 「へえ、それもあります。しかし、新さんの目をまわしたなア、そればかりじゃねえんで。つまり、新さん、その女をしってたんですね」 「ははあ、すると、新七つぁん、なんぞその女に恨みを受けるおぼえがあったんやな」 「いえ、そうじゃねえんで。知ってる女ったって、深いかかりあいのあるわけじゃねえんですが、その女というのが——」 「ふむ、ふむ。その女というのが——?」 「すでにこの世に生きているはずのねえ女で」  辰と豆六とは、おもわずぎょっと顔を身合わせた。 「なんだって?」 「へえ、その女というのは、ほら、いまからちょうど十日ほどまえ、千住のお仕置き場でさらし首になった十六夜《いざよい》お俊なんだそうです」  ここにおいて、辰と豆六、まえよりいっそう目をまるくしたまんま、しばし言葉もなかりけり。  辰と豆六腕くらべ   ——幽霊か幽霊でないか調べてみろ 「丑の時参りが十六夜お俊? 辰、豆六、そりゃアおおかた、新七のやつ、夢でも見たにちがいないぜ」 「ところが、親分、新七の話をきいて、ほかにも出かけていったやつがあるんですが、だれの目もおんなじことで、たしかにお俊にちがいねえというんです」 「すると、丑の時参りは毎晩でるのか」 「へえ、降っても照っても、出るちゅう話だすわ」 「それで、どうしてほっておくんだ。だれもそいつをつかまえようとするやつはいねえのか」 「親分、それなんですよ。なかにゃ、岩見重太郎を気取って、幽霊退治と出かけるやつもあるんですが、その丑の時参りにゃ、なにかついているらしいんです」 「なにかついている? なにかってなんだ?」 「さあ、それがまたわかりまへんねん。つまりやな、岩見重太郎きどりの豪傑が、丑の時参りをつかまえようとちかづくと、きっとどこからか、黒装束のへんなやつがあらわれて、えり髪とって投げつけつ。それがまたおそろしく力の強いやつで、あら、てっきり、冥途《めいど》からお俊についてきた地獄の鬼にちがいない——ちゅうわけで、このごろではだれひとり、丑の時参りにちかづくやつはおらんちゅう話だす」 「ふうむ。それにしても、あの杉の森神社なら、いかにもお俊の化けて出そうなところだな」  と、こう腕こまぬいてかんがえこんだのは、いわずとしれた人形佐七だ。  鎌倉河岸《かまくらがし》の海老床で、辰と豆六がききこんできたちまたのうわさに、佐七は首をかしげている。  それにしても、十六夜お俊とは何者か、どうしてさらし首になったのか、それをお話しするためには、時日を少しさかのぼらねばならぬ。  いまから、ふた月ほどまえの夏の晩のことである。  杉の森神社の森のなかから、ある晩、ただならぬ悲鳴がきこえてきた。  これをききつけて、かけつけたのが与力の神崎甚五郎《かんざきじんごろう》。このひとは以前から佐七をひいきにしている人物だが、その晩は町回りの当番で、同心二、三名とともに、神田へんの警備にあたっていたのである。  さて、神崎甚五郎がかけつけると、社のおくの森のなかに、女がひとり血刀さげて立っていた。  あしもとには、土手っ腹をえぐられた男が、あけにそまってたおれている。甚五郎は同心に命じて、ただちに女をとらえたが、それが十六夜お俊だったことはいうまでもない。  お俊というのは、当時湯島の境内の、十六夜という矢場にでていた女だが、もってうまれた美貌《びぼう》とあいきょうとで、江戸中にその名を喧伝《けんでん》されているほどの名物女だった。  ところで、お俊のあしもとにたおれていた男だが、これは横山町の裏長屋にすむ結城《ゆうき》銀三郎という、色の白い、こいきな浪人者で、謡の師匠かなにかで世渡りをしていた男だが、お俊とはだいぶまえからふかい仲になっていた。  さて、その夜のできごとについて、お俊はつぎのごとく申し立てたそうである。  その晩、お俊は、銀三郎を杉の森神社のおくによびだし、ひとめをしのんで立ち話をしていたが、するととつぜん、木陰からとびだしたくろい影が、銀三郎のわき差しを抜くよとみるまに、ぐさっとひとつき、土手っ腹をえぐった。  そして、とっさのこととて、前後の思慮もうしなって、ぼうぜんと立ちすくんでいるお俊の手に、血にそんだわき差しをおしつけると、そのまま姿をかくしたというのである。  あまりのことに、お俊はなにがなんだかわけがわからなかった。むろん、下手人の人相風体を見きわめるひまもなかったし、同心に捕らえられるまで、じぶんがなにを握っているのか、それすらわきまえなかったというのである。  しかし、こういうあいまいな申し立てが、そのまま受けいれられるはずはない。  それに、お俊銀三郎、ちかごろかなり険悪になっていたことは、おおくのひとが知っていた。  色白で、ようすのいい浪人者の結城銀三郎には、お俊のほかにもおおくの女があったが、ちかごろになって、その銀三郎に、思いがけない幸運がまいこんできた。  塩町にある呉服屋、近江屋《おうみや》の娘お梅というのが、ふとしたことから銀三郎を見染めて、いっしょにしてくれねば死んでしまうと、おさだまりの恋患い。  近江屋ではおどろいて、手をまわして、銀三郎の素行をしらべてみたが、これがはなはだおもしろくない。  若い男のことだから、ほかに女のあるのはやむをえないとして、女から金をしぼりとることをもって生活の資としていうような人物だから、ものがたい近江屋にとっては、ぜったいにふにあいな縁談である。  そこで、親の伝兵衛《でんべえ》や番頭の弥七《やしち》が、口をすっぱくしてお梅をいさめたが、ひとすじに思いつめた娘心をひるがえすことはできなかった。  こうなると弱いのは親である。ことに、お梅はひと粒種、かけがえのない娘のこととて、思いつめて、もしものことがあってはと、伝兵衛もついに我を折らずにはいられなかった。  これで悦にいったのは浪人者銀三郎だ。  近江屋といえば名代の物持ち、入り婿の身はきゅうくつでも、当分おとなしくしていれば、いつか手にいる大身代。しめたしめたと、とらぬたぬきをきめこみながら、祝言の日を待ちかねていたが、好事魔多し、うわさをきいていきり立ったのがお俊である。  お俊銀三郎と、相合い傘《がさ》にまで書かれたふたりの仲、男にこのまま近江屋へ入り婿されては、世間にたいして顔向けならぬ、どうしてくれると、ちかごろしきりにもめていたところだけに、お俊の申し立てがとりあげられなかったのもむりはない。  銀三郎をよびだして、口説のうちにむちゅうになって、おもわず男を刺したのであろう——と、とうとうお俊は引き回しのうえ、獄門と刑がきまった。ところが、そのまぎわになって、お俊は牢《ろう》で病死したのである。  そこで、お奉行所では、死骸《しがい》の首をはねて、千住の刑場でさらしものにしたが、それがいまから十日ほどまえのこと。  そのお俊が、杉の森神社へ丑の時参りとなってあらわれるというのだから、佐七が首をかしげたのもむりはない。 「で、おやぶん、これゃアどうしたもんでしょうね」 「そうよなア」 「親分、まさかこのままほってはおけまへんやろ」 「といって、幽霊あいてに、このおれが十手をふりまわすわけにもいくめえ」 「へえ、それじゃこのまんま、見てみぬふりをしているんで」 「いや、それも心もとない」 「そんなら、おやぶん、どないしたらよろしおまんねん」 「辰、豆六。まさか、おれが乗り出すわけにゃアいけねえから、ひとつ、おまえたちの手ではからってみろ」 「へえ、あっしらの手で?」 「そうよ。あ、そうだ。ひとつおまえたち、腕くらべをしてみる気はねえか。杉の森神社へでる丑の時参りが、お俊の幽霊か幽霊でねえか、ひとつ腕くらべをやってみろ」  といわれて、辰と豆六は、 「へえ」  とばかりに、またもや顔を見合わせた。  怪異杉の森神社   ——現れいでたる丑の時参り五人  その晩の、丑満時のことである。  男心と秋の空で、いまにも雨の落ちてきそうな空模様。杉の森神社の木立のなかに、ふとかすかな灯の色がみえた。  漆のやみをひきさいて、朱をたらしたようなともしびが、ふわりふわりと歩いていた。丑の時参りなのだ。  おさだまりの白装束、胸にまるい鏡をかけ、黒塗りの高足駄《たかあしだ》、さんばらの頭にたてたろうそくと、口にくわえたたいまつが、鬼火のように陰々ともえる。  そのたいまつのあかりでみると、なるほど、わかい女である。  抜けるように、白い、というよりは、むしろ青味をおびたかお、たかい鼻、おおきな目、その目が名状することのできぬ、ふかい恨みと憎しみにもえているところは、鬼気膚をさすかんじである。女は宙をふむような足どりで、ふわり、ふわりと木立のあいだを縫っていた。  やがて木立のなかからでてくると、そこにちょっとした空き地があり、空き地のなかに、古びた祠《ほこら》が立っている。  丑の時参りの女は、その祠をめざして歩みよったが、ふいにぎっくりと立ち止まった。よほど驚いたとみえて、おもわず足が千鳥をふんで、頭にさしたろうそくがはげしくゆれた。  女が驚いたのもむりはない。  そのとき、むこうの木立のあいまから、ちらほらと、あかりの色がみえたかとおもうと、やがて追いついてきたのは、なんとこれも白装束の丑の時参り。姿かたちは、丑の時参り第一号と寸分ちがわないが、顔をみるとこのほうはいくらかわかい。  まだ十七、八の娘である。  ふたりの丑の時参りは、あいだ数間をへだてたまま、石になったように身をかたくして、たがいにあいての姿を見守っていたが、そのとき、ああらふしぎ、またもやへんなことが起こった。  ふたりの丑の時参りのうしろから、ひたひたと、草を踏む音がきこえてきたかと思うと、またもや、その場に現れいでたる丑の時参りふたり。  さて、新しく出現したふたりの丑の時参りも、すがたかたちはほとんどおなじだが、顔をみると、これがなんとも珍妙無類である。  まず、丑の時参り第一号の背後にちかづいてきたやつ、これをかりに第三号とすると、この第三号はだれかに似ているようだ。  そうだ、きんちゃくの辰に似ているのである。  ところが、もうひとりの丑の時参り、すなわち丑の時参り第二号の背後から、しゃなりしゃなりとあらわれいでたる第四号だが、こいつはまた、うらなりの豆六に似ているのだから、ますますもって妙である。  さても、あらわれいでたる丑の時参り四人、しばらくあっけにとられた顔色で、たがいに顔を見合わせていたが、やがて第三号と第四号とが、それぞれ、手近の丑の時参りにちかづいた。  これをみた丑の時参り第一号と、第二号とは、あなやとばかりにうしろに飛びのく。  第三号と第四号は、おのれ逃がしてなるものかと、ふたりのあとを追っかけるが、なにしろみんな高足駄だから、この鬼ごっこたるや、はなはだスローモーションである。  ところが——ここにまたもや、へんてこなことが起こった。  四人の丑の時参りが、奇妙な鬼ごっこにむちゅうになっているとき、きゅうに祠《ほこら》のきつね格子がひらいて、なかからぬっと出てきたのが、なんとこれまた丑の時参りの第五号。  これではまるで、丑の時参りオン・パレードだが、しかも、この第五号のものすごいったらない。  青黛《せいたい》をはたいたような青白い顔、さかだつ柳眉《りゅうび》、ひとみは炎のようにかがやき、これがきつね格子をひらき、撞木《しゅもく》をもった右手をふりあげ、はったと四人の丑の時参りをにらんだときには、あまりのものすごさに、他の四人は、あっと叫んで、たいまつを落としてしまったのである。  正体不明の第五号   ——あいつも男じゃなかったか 「ふうん。すると、その第一号の丑の時参りは、たしかに死んだはずの十六夜お俊で、第二号というのが、近江屋のお梅だったというんだな?」  と、その夜の明け方、ぼんやりお玉が池にかえってきた辰と豆六に佐七はきいた。 「へえ、さようで。これにはあっしも驚きましたよ。なにね、ただ出かけていっただけじゃ、お俊についているてんぐみたいな野郎に、いつなんどきえり髪とって投げだされるかしれたもんじゃねえ。——と、そう思ったもんですから、こいつひとつ高飛車にでて、こっちも丑の時参りになってやれと、損料の衣装で出かけたんですが、そこへ近江屋のお梅が、やっぱり同じこしらえであらわれたときには驚いた。それだけならまだいいんですが、そのあとから豆六の野郎まで、馬がちょうちんをくわえたようなながい面で、丑の時参りをきめこんできたんだから、あっしはもう、おかしいやら、腹が立つやら、親分、あねさん、ほんにおまえさんがたに、あの豆六のつらを見せとうございましたよ」 「ヘン、兄い、えろうおつなこといやはりまんな。あんたこそ、平家がにをふみつぶしたような顔をして、丑の時参りとは……わてらあんまりおかしゅうて、おへそをやけどしましたがな」 「はっはっは、まあいい、まあいい。だれの知恵もおんなじで、ふたりがふたりとも、丑の時参りの風体で出かけたのは大笑いだ。しかし、辰、お俊、お梅はいいとして、さいごに祠《ほこら》から出てきたやつ、そいつについては、おまえたちにもまったく心当たりがねえというんだな」 「へえ、かいもく見当もつきません」 「いったい、どんなやつだった」 「としは、さあ、三十ぐらいでしたかね。目のきれいな、ようすのいい年増でしたが、ただあっしはちょっと妙なことに気がついたんです」 「辰、その妙なことというのは、どういうことだえ」 「へえ、親分、じつは、くらがりのだんまりで、あっしはふと、そいつの手首を握ったんですが、それがいやに骨がかたくて……ひょっとしたら、あいつもあっしらとおなじように、男じゃなかったかと思うんです」  佐七はじいっと思案をしていたが、 「そして、そいつ、見たところは、りっぱに女になっていたというんだな」 「へえ、あっしや豆六の茶番とちがって、それゃアもう、水のたれそうなよい女で……それだけに、そいつが出ると、まずお俊とお梅がにげだす。あっしと豆六が追いかける。だが、そんなどさくさのうちに、ろうそくとたいまつが消えたので、あたりはまっくら真のやみ——けっきょく、それなりけりになってしまったんです」 「ふうむ」  と、佐七がなにやら考えていたが、にわかにはたとひざをたたくと、 「辰と豆六、そいつはひょっとすると……」  といいながら、きゅうにいきいきした目付きになって、すうっとその場を立ちあがった。  眠れる丑の時参り   ——こいつは薬が利きすぎた  さて、その晩、今宵《こよい》もまた、いまにも雨のおちてきそうな空模様。雲はひくくたれさがって、星影ひとつみえなかった。  杉の森神社の森のなかには、今宵もまた、ふくろうが気味わるく鳴いて、枝をわたる風もなまぬるい。その森の一隅《ぐう》に、さっきから黙々とうごめいている影がある。  一つ、二つ、三つ——どうやら三人、たかる秋のやぶ蚊をはらいのけながら、辛抱づよく待っているのは、いわずとしれた人形佐七に、ふたりの子分の辰と豆六だ。  ずいぶん長いあいだだったが、やがておあつらえむきに、どこやらで鐘の音がゴオーンときこえ、いよいよ丑満時である。——と、この鐘の音があいずででもあったかのように、むこうの木立のあいだから、ほのかな灯の色がうごいてきたかと思うと、やがて三人の目のまえに、ぼんやりうかび出したのは、白装束の丑の時参り。 「おや」  と、それをみると、辰がおもわず小首をかしげた。 「親分、あれゃア近江屋のお梅ですぜ」 「そや、そや、こんやはお梅のほうが、ひとあしさきにやってきよった。それにしても、お俊のやつはどないしよったんやろ」 「しっ」  と、ふたりを制した人形佐七、声をひそめて、 「辰、豆六、あのお梅の目つきをみろ」 「へえ」  と、辰と豆六は、佐七にいわれてお梅の目つきをみたが、とたんに、ふたりともごっくりつばをのみこんだ。  お梅は大きく目をひらいている。しかし、その目は眠っているのである。鈴を張ったような美しい目は、口にくわえたたいまつの火で、じろじろとほたるのように光っているが、それでいて、その目つきにはさらに生気がないのである。 「お、親分……あれは……」 「お梅はねているんだ。あの娘は、あれで、じぶんがどこにいるのか、なにをしているのか、ちっとも知っていねえにちがいねえ」 「親分、そん、そんなけったいな……」 「いや、けったいでもなんでもねえ。お梅はなにか、心に思い患うことがあるんだ。ひとにいえねえかくしごとを持っているんだ。それがこうじて病になり、あれ、あのとおり、眠りながらふらふらと、家を抜け出してきたにちがいねえ」 「しかし、親分、あのこしらえは……」 「あれゃアな、ちかごろ、この森のなかへ、お俊の幽霊が丑の時参りになってあらわれるときき、いつかじぶんもそれにひきこまれたのだ。お梅はきっと、お俊の幽霊がだれをのろっているか、知っているにちがいねえ。お梅がそれが怖いのだ。そして、その怖さがこうじて、こんどはみずから丑の時参りとなって、お俊の幽霊をのろおうというのにちがいねえ」  辰と豆六には、佐七の話が、わかったようでわからない。  佐七のいうのは、おそらく自己催眠のことであろう。しかし、そのじぶんには、そんな気の利いたことばはなかったし、また、あったにしたところで、そんなむずかしいことばは、おそらく、ふたりの理解を超えたことだったにちがいない。  それはさておき、こちらはお梅だ。  あいかわらず、覚めるともなく、眠るともないぶきみな目つきで、ふらふらと祠のそばへ歩みよったが、そのときふいに、木立のあいだからとび出した影がある。  丑の時参り第一号——いうまでもなくお俊の幽霊——とおもわれている人影である。  ふたりの丑の時参りは、昨夜とおなじように、しばらくはことばもなく、たがいの姿を見まもっていたが、ふいにすらりとお俊の幽霊がすりよった。 「お梅さん」  するどい声で呼びかけたが、お梅は無言で、いぜんとしてうつろのひとみをみはっている。お俊の幽霊は、また一歩すりよった。 「お梅さん、おまえはなんだって、そんな姿で、ここへきたんです。いいえ、おまえの魂胆はわかっている。おまえはきっと、このわたしをのろい殺そうと、丑の時参りをしているにちがいない。まあ、なんて恐ろしいひとでしょう。恨みはこっちにこそあるものを……」  お俊は、ひくいつぶやくような声でささやくと、いきなりお梅の手首をとらえた。 「お梅さん、わたしがだれだかわかりますか。わたしはお俊ですよ。おまえさんのために、あのおそろしい人殺しのぬれぎぬをきせられ、お仕置きにあったお俊ですよ。ああ、恨めしいお梅さん。おまえのために、あたしゃこのような修羅《しゅら》の苦しみ……いえ、いえ、修羅の苦患《くげん》をうけているのは、わたしばかりじゃありませんよ。お梅さん、おまえのうしろをごらんなさい」  お梅はそれでもお俊のことばがわかったのか、ぼんやりうしろをふりかえったが、とたんに、きゃっと叫んでとびのいた。 「ああ、ああ、ああ、あなたは……銀三郎さま!」  お梅の声に、むこうの暗やみをのぼいた辰と豆六、そこでおもわずあっと息をのんだ。むこうのすぎの木の下に、わかい男が血だらけになって立っている。青白い顔、さんばらに乱れた髪の毛、それが、おがらのような手をあげて、おいでおいでをしているところは、身の毛もよだつほどの恐ろしさだった。  男は風にふかれる木の葉のように、身をふるわせながら、 「恨めしいぞよ、お梅どの。おまえのためにえぐられたこの土手っ腹が、いまになってもうずく。お梅……わたしは迷うた。迷うて、この場へでてきたぞ」 「かんにんして、かんにんして、銀三郎さま」 「いいや、許せぬ、かんにんできぬ。これ恨めしいお梅どの」  男はふらふら、柳の木の下からしのび出てくる。 「あれ!」  と、お梅ははじかれたようにとびのいたが、 「お梅さん、恨めしい。あたしゃおまえのためにぬれぎぬをきせられ、獄門にかけられました。ああ、この首筋がうずきます。お梅さま」 「お梅、見てくれ、わしのわき腹からは、まだこのとおり、おまえにえぐられたときの血が流れているぞ。これ、お梅」 「もし、お梅さま……」 「かんにんして……かんにんしてください。銀三郎様を殺したのは、たしかにわたし。この森のなかでお俊さんと会うているのをかいま見て、ねたみにたえかね……あれ、銀三郎さま、お俊さん!」  それがあわれなお梅の、さいごのことばであったらしい。  お梅は骨をぬかれたように倒れると、そのまま息はたえてしまった。  これをみると、にわかにあわてだしたのは、銀三郎の幽霊だ。 「あっ、こ、これは……親分、親分、これは……薬がききすぎました。お梅さんはどうやら死んで……」  辰と豆六、これには肝がひっくりかえるほど驚いた。銀三郎の幽霊が、ちゃんと、じぶんたちがここにいることを知っているのみならず、なれなれしく呼びかけてきたんだから、これゃア驚くのがあたりまえである。 「お、親分……」 「出たらいかん、出たらいきまへん。ゆ、幽霊にとりつかれまっせ」  日ごろの高言もどこへやら、辰と豆六、ガタガタふるえ出しゃアがった。  しかし、ふたりの止めるのをふり払って、その場へとび出した人形佐七、お梅のからだを抱きおこしたが、やがて、ほっとふかいため息をつくと、 「ああ、もうこと切れている。しかし、このほうがお梅にとっちゃ、かえって仕合わせだったかもしれねえ。生きていても、しょせん死罪はまぬがれぬところだからなア」  と、そこで幽霊と丑の時参りをふりかえると、 「葉村屋の親方、ご苦労でしたね。これ、お俊、親方によく礼をいいねえ。さすがは幽霊芝居の名人といわれた葉村屋の親方、芝居が真に迫っていたから、お梅もとうとうどろを吐いたんだ。これでおまえも、むじつの罪がはれたんだぜ」 「親分さん、なんにもいいません。これ、このとおり……」  と、地べたにひれ伏し、泣きむせぶ丑の時参りの姿をみて、辰と豆六は、きつねにつままれたような顔付きだった。  堺町《さかいまち》顔見世狂言   ——親分、そ、そ、そら殺生やがな 「いや、すまねえ。すまねえ。敵をあざむくにはまず味方からと、おまえたちにも内緒にしていたのはわるかったが、お俊に丑の時参りをさせたのはこのおれよ」  一件落着ののち、佐七が語るところによるとこうである。 「お俊をつかまえた神崎様は、かねてから、おいらをひいきにしてくださるだんなだが、その神崎様のおっしゃるには、お俊が下手人とはおもえねえ。とはいえ。ほかに下手人の心当たりがないいじょう、仕置きにせねばならぬが、佐七、なにかよい知恵はなかろうか……と、こういうおことばだ。そこで、ふと思いついたのは、大岡《おおおか》政談の皮はぎ獄門だ。ちょうどそのころ、牢死《ろうし》した女のなかに、お俊のとしかっこうに似たやつがあったから、それを身がわりにつかったのよ。なアに、牢舎ぐらし、それに生き顔と死に顔じゃかわるから、だれひとり身代わりと気付いたものはねえ。そうしておいて、お俊には、杉の森神社へ丑の時参りをさせたんだ。そのうわさが世間につたわれば、ほんとうの下手人は、きっと気味悪がってようすを見にくると思ったからよ。しかし、お俊の身にまちがいがあっちゃならねえから、おれがかげながら見張ってやった。てんぐのようにつよい男というのは、辰、豆六、じつはおれのことよ」 「へえ、親分、そいつはあんまり……まあ、いいや、しかし、葉村屋の嵐吉太郎《あらしよしたろう》さんは、なんだって、あんなところへとび出したんです」 「さあ、それよ。お梅が丑の時参りになってきたと、おまえたちの話をきいたとき、下手人はお梅と、おれにもわかったが、わからねえのは、祠のなかから出てきたやつだ。しかし、おまえたちの話をきいて、たしかに男ときいたから、おれははたと思いあたった。というのは、十一月の堺町《さかいまち》の顔見世狂言に、丑の時参りの場面があるということは、おれもかねてからきいていた。芸熱心な嵐吉太郎、さてこそ、丑の時参りの実地を見にきたにちがいねえ——と、そう思ったものだから、葉村屋へ出向いてみると、案の定そのとおりだ。そこで、ついでのことに、銀三郎の幽霊をやってもらったのだが、それが図にあたってあのとおりのしまつ。しかし、辰、豆六、おまえたちの丑の時参りを、おれも木立のかげからみていたが、いや、ありゃアきんらいの見ものだったぜ」 「なんだ。そんなら、親分、あれをみていなすったのか」 「そんな、そんな、殺生な……」  と、ここにおいて辰と豆六、頭をかかえて逃げ出したという。     仮面の若殿  すり騒動   ——またぐらからブラブラ紺の財布が 冬枯れの中の小春の柳かな  というのは桃里の句だが、きょうのようなお天気を、小春日和というのだろう。  ひところ江戸の町々を、かぐわしくにおわせていた菊の花も色あせて、朝な朝な、霜柱も目立つ十一月なかば。きょうはめっぽうよいお天気で、歩いていても、背中がジーンと暖かくなるような小春日和の暖かさを、からだいっぱい楽しみながら、人形佐七がやってきたのは柳原堤。  土手のうえの柳並木も、まったく冬枯れのなかの小春の柳である。時刻はかれこれ昼ちかく。 「ああ、世のなかにはいい女もいるもんだなあ」  場所は柳原堤のはずれ。八辻《やつじ》が原《はら》へさしかかろうとするところで、佐七はいましもまえをいく娘をみて、しみじみ、心のなかでそうつぶやいた。  娘というのは、年のころ十七、八、黄八丈の黒えりに、結い綿の花かんざしもにおわしく、ふるいつきたいほどいい女だ。 「ああ、世のなかにゃ、しみじみ、いい女もいればいるもんだなあ」  根が女には目のない人形佐七である。  しかも、きょうはさいわい、口のうるさい辰や豆六もそばにはいない。  じつのところ、辰と豆六、ここのところご乱行で、無断外泊がつづいているが、ゆうべもどこへしけこんだのか、ふたりそろってかえってこない。  きょうというきょうは、帰ってきたらうんと油をしぼってやろうと、お粂とふたりで、手ぐすねひいて、ふたりのかえってくるのを待っていたが、そのまえに、よんどころない所用があって、かくはめずらしくも、佐七ひとりの外出とあいなったしだい。  しかし、世のなか、なにがさいわいになるかしれたものではない。ふたりがいないから、お粂に告げ口される心配もないと、佐七はにやにやほくそえみながら、鼻の下をながくして、娘のあとをつけていったが、このとき、むこうからやってきたのが、二十五、六のいい兄い。  どんと娘にぶつかって、そのまま五、六歩いきかけたが、どうしたのか、にわかにきょときょと懐中をさぐると、ぎくりとうしろをふりかえって、 「もしもし、ねえさん、ちょっと待っておくれよ」 「はい、あの、待てとおっしゃるのは、わたしのことでございますか」  娘はおどおど立ち止まった。 「そうさ、おめえさんよ、ねえさん、つまらねえいたずらはよしにしようぜ。きれいな顔をして、おめえもずいぶん大胆な娘だな。いま、おいらのふところから抜いた財布を、こっちへけえしてもらいてえ」 「あれ、ま、そのようなこと……」  娘はまっさおになったが、佐七もおどろいた。はてな、するとあの娘はきんちゃく切りかな。  いいきりょうをしてこれだから、いまどきの娘のゆだんがならねえ。  飛びだそうか、いや、待て待て、もうすこしようすを見ていようと、はやバラバラとむらがりよった野次馬の、うしろに立って見ていると、 「おい、おい、冗談じゃアねえぜ。おいらはいそいでいるんだ。財布さえけえしてもらやア文句はねえ。いま、おめえがどんとぶつかった拍子に、そのやわらかい手が、おいらのふところへはいった。おやと思ってさぐってみると、お店からあずかってきた財布がねえ。なあ、ねえさん、器用にけえしておくんなせえな」 「だって、だって、それはあんまりえす。あんまりでございます。そのようないいがかりを……」  娘は羞恥《しゅうち》と恐怖に、あおくなったり、赤くなったり、穴あらばはいりたきふぜいだ。 「なに、いいがかりだと。こうこう、ねえさん、おいらがおとなしくでりゃ、いい気になりゃアがって、いいがかりたアなんだ。こうなりゃアお立ち会いが証人だ。はだかにしてでも、財布をださせてみせるぞ」  落花|狼藉《ろうぜき》とはまさにこのこと、すでにあわやというところへ、 「町人、しばらく待て」  と、野次馬のなかから、スイとまえへでたひとりの侍がある。品のいい、年輩のご浪人だ。 「いまあれできいておれば、この娘ごがそなたの財布をすりとったともうすが、しかとさようか」 「へえへえ、それにちがいございませぬ。虫もころさぬ顔をして、いや、もう、ふてえあまだ」 「して、その財布とはどのような品だの」 「へえ、紺の財布に、ながいひもがついてますんで」 「なるほど。その財布をすられたゆえ、これなる娘ごをはだかにするというのだな。したが、町人、もしこの娘ごが、そなたの財布を所持せぬときは、そのほう、いかがいたす所存じゃ」 「いえ、もう、そんなはずはございませぬ。こいつが抱いているにちがいねえんで。が、まあ、ようがす。だんながそうおっしゃるなら、万一、娘が所持せぬときは、あっしの首を差し上げましょう」 「しかとさようか」 「お立ち会いが証人だ。二言はございませぬ」 「ふうむ、さようか」  ご浪人はにっと片ほおに笑みをうかべると、 「しからばきくが、町人、そのほうのまたぐらにブラブラしているもの、そりゃなんだな」 「え、あっしのまたぐらに」  兄いはなにげなく、おのれのまえに目をおとしたが、とたんにあっと叫んで、まっさおになった。はしおった着物のすそから、南無三《なむさん》、財布がのぞいている。 「げっ、こ、これは……」 「そこつ者、約束により素っ首もろうぞ」 「わっご、ご勘弁を……」  兄いは両手で首根っこをおさえると、雲をかすみと一目散。いや、その逃げ足のはやいこと。  あと見おくって野次馬は大笑いだ。  娘もほっとしたように、ご浪人に礼をのべてかえっていく。 「ちょっ、そそっかしい野郎もあるもんだ。またぐらへ財布がずりおちているもの気づかず、とんだいいがかりをつけやアがる」  佐七もあまりのおかしさに、わらいをかみころしながら、お玉が池のわが家へと立ちかえったが、さて、はなしというのはこれからなのだ。 「いまかえったよ」  と、ガラリとおもての格子をひらくと、ゆうべどこかへしけこんでいた辰と豆六が、長火ばちのそばで、お粂をあいてに、なにやらおもしろそうなはなしのさいちゅう。 「おや、おかえんなさい」 「親分、おかえり」 「親分、おかえりやす」  辰と豆六は、寸ののびた顔をしている。  佐七はわざと顔をしかめてみせて、 「なんだ、いやににぎやかだな。おおかた、つまらねえのろけでもしゃべってやアがるんだろう。お粂もいいかげんにきいておかねえか。みっともねえ」 「いえさ、そんなはなしじゃありませんのさ。辰つぁんと豆さんが、けさ水天宮のそばで、おもしろい茶番を見てきたって、そのはなしなんですよ」 「親分、のろけじゃありませんや。女すりのはなしなんで。それがめっぽういい女だから、あっしもはなは、ドキドキしてまいたが、けっきょくそれが、とんだ茶番で大笑いでさ」 「なんだ、女すりだと」  長火ばちのまえで、お粂のつめたキセルをスパスパ吸っていた佐七は、おもわずはてなと向きなおる。 「あ、あれや。これやさかい、あねさんが気をもむのんもむりはおまへん、女のはなしだとすぐこれや」 「バカ野郎、女すりがどうしたんだってんだ」 「へっへっへ、いや、あねさんにしかられるかもしれねえが、親分にみせたかったね。ゾッとするほどいい娘でさ。そいつが、どっかの兄いとぶつかったと思いなせえ。そうすると、兄いめ、すりだ、すりだとバカな騒ぎで、その娘にむしゃぶりつきましてね。娘が財布をすったというんでさ。そして、あわや娘をはだかにしようというところへ、まっぴらごめんとあらわれたのがこのあっしでさ」 「兄い、こすいよ、こすいよ、わてもいっしょやおまへんか」 「なあに、てめえなんか付け足しよ」 「あれ、あないなこというてる。それじゃ契約違反や。よっしゃ、ほんなら、ほんまのことばらしたろ」 「いいよ、いいよ、そうそう、親分、そのとき、豆六もたいそう威勢がよかったんで」 「そうだんがな。わていうたりましたんやで」 「豆六、なにをいうたったんだ」 「あんちゃん、あんた財布をすられたちゅうが、いったいどないな財布やねん。へえ、紺の財布にながいひもがついてまんねん。ああ、さよか、そやけど、その財布をこの娘はんが持っておらなんだら、あんたはん、どないしやはりまんねん。冗談やおまへん。そのときには、わて首を差し上げまっさと、こないそのあんちゃんがいいまっしゃろがな。そこで……」 「おい、おい、豆六、そのあとはおれにいわせろ。そこでねえ、親分、あいてが首を差し上げると、見得を切りゃアがったでしょう。そこで、あっしがわざとおだやかにね、しかとさようかと念を押すと、野郎、お立ち会いが証人だとぬかしゃアがった。ここにおいて、あっしはハタとにらみましたね」 「そして、わてがいうたったんです」 「はてな、辰がにらんで、おまえがいったのかい」 「そうですとも、兄いはドングリ眼で、にらみがききまっさかい、にらむほうは兄いにまかせておいて、いうほうをわてが引き受けたんです」 「そうそう、口はおめえのほうが達者だからな。で、なんというたったんだ」 「ええと、なんちゅうたかな。そやそや。こりゃこりゃあんちゃん」 「なんだ、こりゃこりゃあんちゃんていったのかい」 「へえ、わてもう、ええとこ見せたろ思て、浮かれてましたさかいにな」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「こりゃこりゃあんちゃん、あんさん、そのまたぐらにブラブラしてるのん、そら、なんだねん」 「いわれて、野郎、おどろきゃアがった」 「そそっかしいやつやおまへんか」 「またぐらに財布のずりおちているのも気がつかねえんでさ」 「おかげでわてらはもう、やんややんやと見物にほめられるし」 「娘にゃゾッコンほれられるし」 「ことしはなんて年まわりがいいんでしょう」  辰と豆六、掛け合い話よろしく、ふたりともたかくもない鼻をひこつかせ、両人両様におさまりかえったから、佐七はあきれかえって、ふたりの顔を見まもっていたが、やがて、とんとキセルをたたくと、 「辰、豆六、おまえたちなかなかはなしがうまいが、それゃすこし筋がちがやアしねえか」 「とおっしゃいますと……?」 「娘をたすけたのは、おめえたちじゃアあるめえ。年輩のご浪人のはずだ」 「わっ、親分、あんさん、そ、それをどうして……?」 「あら、まあ、おまえさん、そんならいまの辰つぁんや豆さんのはなしは、みんなうそかえ」 「いや、まんざらうそでもねえんだが、こいつら朝帰りでてれくせえもんだから、ひとの手柄をわがことの自慢ばなしにでっちあげて、われわれをけむにまこうとしやアがったにちがいねえ。辰、豆六、与太もいいかげんにしろ。そして、その娘というのは、黄八丈の黒えりで、結い綿に薬玉《くすだま》の花かんざしかなんかさしていたろう」 「そうそう、こいつは奇妙だ」 「親分、お手の筋」 「なにが奇妙でお手の筋だ。しかし、辰、豆六、おめえたちがその一件を見たのは、水天宮様のご近所だというんだな」 「へえ。しかし、それがなにか……?」 「時刻はいつごろだ」 「へえ、けさの五つ半(九時)ごろでございます」 「はてな」  佐七はおもわずうなってしまった。  ふぐ騒動   ——血相変えて路地から飛びだし  どうにもわけがわからないのである。  辰と豆六が朝帰りに、水天宮のそばでみたという三人と、佐七がはからずも柳原堤でみかけた三人と、たしかにおなじ三人にちがいないのだが、どんな理由で、かれらがそんな人騒がせをするのか、さすがの佐七にも見当がつかない。  念のために、水天宮様のきんぺんと、柳原堤近辺をしらべてみたが、べつに変わったこともないという。  すり騒ぎでひとを集めておいて、そのあいだに相ずりが野次馬の懐中物をするとか、近所の空き巣をねらうというのは、昼夜用心記にもある古い手だが、どうやらそれでもないらしい。  茶番にしては季節はずれだし、がんらい茶番というやつは、さいごに種明かしをして、あっと見物の度肝をぬいてよろこぶのが眼目だが、そういう趣向をないからおかしい。  佐七はなんだかいやな気持ちだったが、それから三日目、辰と豆六をつれて、上野の広小路をあるいていると、豆六がふいにそでを引っぱった。 「あ、親分、ちょっと見なはれ。このあいだの娘が、むこうからやってきよった」 「なに? このあいだの娘」  と、みるとおどろいた。  柳原堤の娘が、むこうからスタスタとこっちへやってくる。 「辰、おまえの見たのも、たしかにあの娘か」 「あっ、なあるほど。ちがいねえ。ああ、見れば見るほどいい女、どこで会ったってまちがえっこありませんや。なあ、豆六」  といううちに、こっちからやってきた兄さんが、どんと娘にぶつかった。  これもまた、たしかに柳原堤のあの兄い、二、三歩行きすぎてからくるりとふりかえると、 「もしもし、ねえさん、ちょっと待っておくれでないか」  と呼びとめたから、おどろいたのは辰と豆六。 「ちょっ、あん畜生、またはじめやアがった」 「しっ、いいから、てめえ黙ってろ。けっして途中で口出しをするんじゃねえぞ。知らぬかおして、おわりまで見ているんだ。豆六もいいな」 「へえ」  なにくわぬ顔をして見物していると、それからあとは、このあいだとそっくりおなじだ。  兄いが娘をはだかにしようとする。  このあいだの浪人があらわれる。  けっきょく、財布はまたぐらにあって、兄いは頭をかかえて逃げていく。  なにもしらぬ見物は大喜びだが、辰と豆六はきつねにつままれたようなかおだった。 「親分、こりゃアまた、どうしたんでしょうね」 「ふむ、どうもおかしい。あいつらまんざら、知恵のねえふうでもないに、いつもいつもおなじ筋書き、狂言をかえねえところが妙だ。辰、豆六、耳をかせ」  佐七がなにやらささやくと、辰と豆六はうなずいて、 「おっとがってん。すると、すると、あっしゃあの浪人を……」 「わてはあのあんちゃんを、つけていきまんねんやな」 「そうだ。どこまでも見失うな」 「そして、親分は……?」 「おれはあの娘をつけていく」 「そんなん、こすい、こすい」 「親分、豆六のいうとおりだ。こいつは役どころを変えたほうがいいんじゃありませんか。あんなきれいな娘をつけると、あとでまた、あねさんがやかましゅうござんすぜ」 「ほんまや、ほんまや」 「バカ野郎、冗談いわずにはやくいきねえ」 「おっと、泣く子と」 「親分には勝てまへん」  首をすくめた辰と豆六、みえがくれに浪人とあんちゃんのあとをつけていくのを見送って、こちらは人形佐七も、奇怪な娘のあとをつけはじめる。  娘はそんなことを知るやしらずや、そでかきあわせてスタスタと、広小路から不忍池《しのばずのいけ》、さらにそこから根岸へとみちをとったが、なにを思ったのか、そこからふたたび引き返すと、山下から黒門町、よくまあ娘のくせに足がつづくもんだとあきれるほど、さんざんほうぼうを引っぱりまわしたあげく、やってきたのは浜町の裏通り、かどにいかり床という髪結い床があって、そのよこが袋小路、娘はズイとなかへはいると、いちばん奥のうちへ消えた。 「はてな、すると、あのうちがそうかな」  佐七が見送っていると、いかり床のなかから、 「親分、親分」  と、呼びながら飛びだしてきたのは、おどろいた、なんときんちゃくの辰ではないか。 「おや、辰、てめえどうしてここへ」 「しっ、歩きながら話しましょう。おお、おどろいた。いまそこで顔をあたっていると、ちらとあの娘の顔が鏡にうつったじゃありませんか。あっしゃびっくりして、もう少しで顔をきるところでさ」 「なんだって、また御用のとちゅう、ろくでもねえつらアみがいていやがるんだ」  あんまりおどろかされたもんだから、佐七は業腹でたまらない。おもわずことばを強くすると、辰はぷっとふくれあがって、 「あれ、いやんなっちゃうな。あっしが柄にもなくおめかしをしていたのも御用なればこそ。親分、あの浪人も、あそこの横町にいるんですぜ」 「なんだ。それじゃやっぱりあの奥のうち」 「そうでさ。だから、あっしゃ顔をそりながら、いろいろ亭主《ていしゅ》にきいていたんでさ」 「あ、そうか。てめえにしちゃ上出来だ。で、なにか聞き込みがあったかい」 「へえ、なんでもあの浪人というのは、梁川甚兵衛《やながわじんべえ》といって、もとどこかのお旗本の御用人だったそうですが、ちかごろおいとまになって、あそこへ引っ越してきたんだそうで」 「ひとり住まいか」 「そうなんで。もっとも、さっきの兄いですがね、ありゃア源助といって、これまた、どっかの折り助をしていたというはなしですが、こいつが、三日にあげず泊まりにくるというはなしです」 「そして、あの娘はなにものだえ」 「あれゃア甚兵衛の姪《めい》だそうですが、どこかお屋敷奉公をしてるってえはなしです」 「だが、辰、ありゃお屋敷ふうじゃねえぜ」 「それでさ。あっしもそこを突っ込んだんですが、いつもくるときゃ竪矢《たてや》の字《じ》だそうです。しかし、お屋敷ふうは窮屈だてんで、くるとああして、下町ふうにつくるんだというはなしです」 「そんなにたびたびやってくるのか。よほど気楽なお屋敷とみえるなあ」  はなしのうちに、町内をひとまわりしたふたりが、ふたたびもとのいかり床のまえまでくると、そこに豆六が立っていて、しきりに路地のおくをのぞいている。その背中を、辰がポンとかるくたたくと、豆六は、 「ひえッ!」  と、悲鳴をあげてとびあがったが、 「なんや、兄いだっか。びっくりさすやないか。あれッ、親分も」 「豆六、それじゃさっきのあんちゃんも、この路地のおくかえ」 「さよさよ。ああ、さよか、ほんなら、親分、兄い、さっきの娘や浪人も……?」  三人は思わず顔を見あわせた。  こうして三人ひとつところへ落ち合ったところをみると、さっきの一幕はいよいよ、なれあいの茶番ときまったが、さて、いったいかれらは、なにをたくらんでいるのであろうか。  そこに犯罪が行われているのなら、うむをいわさず踏みこんで、ひっとらえるという手もある。しかし、いままでかれらがやっている三度の茶番で三度とも、怪しいことが演じられたというふしもない。あの騒ぎのあいだに、だれかがすられたという訴えもなく、ご近所に空き巣がはいったというはなしもない。  いったい、なんのために、昼日中、大道のなかで、飽きもせず、あんなバカなことをやっているのか、それがわからないいじょう、うっかり踏みこむわけにもいかない。うっかり早まっては、ひっこみのつかぬ破目にならぬともかぎらない。  そこで、もうすこしようすを見ていようと、四半刻《しはんとき》(半時間)ほどそのへんをぶらぶらしているところへ、路地のおくから、バタバタと飛び出してきたのは、さっきの娘だ。  ところが、これが変わっているのである。服装からかみかたち、すっかり変わっているのである。  なるほど、こんどはどうみても、お屋敷勤めの腰元だった。  娘はなぜか顔色あおざめ、吐く息さえも切なげに、よろよろこっちへやってきたが、佐七をみるとはっと顔をそむけて、そのままバタバタかけぬけた。 「それ、豆六」  佐七が娘のほうへあごをしゃくると、 「おっとがってんや」 「手だしをするな。ただ、どこのお屋敷へはいっていくか、そこをこっそり見定めてこい」 「おっと、合点、承知の助だす」  豆六が見えがくれに娘のあとをつけていくのを見送って、佐七は辰と顔見あわせた。 「親分、なんだか妙ですね」 「そうよなあ、辰。おらアなんだか胸騒ぎがしてきた。ひとつ、あのうちをのぞいてみよう」  路地のおくのそのうちをのぞいて、ふたりはあっとびっくり仰天した。  七輪、ちゃぶ台、ちょうし、杯盤などの散乱したなかに、虚空をつかんで死んでいるのは、まぎれもなくさっきの浪人と若者、すなわち梁川甚兵衛と源助だ。  ふたりは鍋《なべ》のものをつついているうちに、毒がまわって死んだらしい。  佐七はつかつかうえへあがると、はしをとって、鍋のなかをつついていたが、 「辰、これゃふぐだぜ」 「ふぐ……? すると、親分、こいつらはふぐの毒にあてられて死んだんですかえ」 「ふむ、なんともいえねえが。だが、辰、せっかくだが、ここは黒門町の弥吉《やきち》のなわ張りだ。あまり荒らさねえうちに、おまえ、ひとっ走りいってこい」  土岐《どき》騒動   ——若殿は去年の春から行方不明  これがふぐの中毒だとすれば、なんのへんてつもない事件だが、このあいだからの妙なすり騒ぎのいきさつがあるだけに、佐七にはなんとも合点がいかなかった。  腕こまぬいて考えているところへ、きんちゃくの辰のしらせによって、黒門町の弥吉がかけつけてきた。 「兄い、わざわざしらせをもらってすまねえ」  弥吉というのはしごく神妙な人物で、佐七と日ごろから昵懇《じっこん》のあいだがらだから、べつにいやみなこともいわれない。  あいさつもいたっておだやかだ。 「なに、おたがいさまよ。はなしはあらかた辰からきいてくれたろうが、ここはおまえのなわ張りだ。まあ、ひとつはたらいて手柄にしねえ」 「まあ、兄い、そんな因業なことはいわずに、片棒かついでおくんなさいよ」  そこで、ふたりはさっそく家のなかを調べてみたが、べつにこれはというものは見当たらぬ。  いかに昵懇とはいえ、他人のなわ張りにこれいじょう手をいれるのもどうかとおもって、あとはばんじ弥吉にまかせて、佐七はひとまず引きあげることにした。  おもてへでると、辰が、 「親分、さっき黒門町のにも話したんですが、ふぐとみせかけ、あの娘が一服盛って、ふたりを殺しゃアがったんじゃありますまいか」 「これ、辰、めったなことはいうもんじゃねえ。しかし、それにしても、さっきの娘、ありゃすこし変だったなあ」 「変ですとも。まっさおになってさ、足もとさえもよろよろと、ありゃアよっぽど、心にとがめることがあった証拠だ。だから、あいつがころりと一服」 「なに、おれのいうのはそうじゃねえ。あの女のみなりだ。おいらが町内をひとまわりするのに、どれだけ時間がかかるとおもう。ほんのまたたくまだ。そのあいだに、着物はともかく、頭まで結いかえるというのは、いったいどうしたんだ」 「あ、なある。すると、あれはかつらかな」 「そうよ。てめえはいまはじめて気がついたのか。娘はさっきでていくとき、大きなふろしき包みをもっていたろう。あんなかに、まえのかつらをはじめ、衣装万端、包んでもっていきゃアがったんだ。だが、どうも変だな。おれにゃアまだふに落ちねえことがある。しかし、まあ、豆六がなんとか探ってくるだろう」  佐七はなんとなく浮かぬかおで、お玉が池のわが家へかえってきたが、すると、女房のお粂が待ちかねていたように、 「あら、おまえさん、遅かったね。さっきから二度も、八丁堀《はっちょうぼり》からお迎えがあったよ」 「おお、そうか。なんだろう。それじゃひとつこの足でお伺いしてみよう。辰、てめえもいっしょにこい。お粂、豆六がかえってきたら待たせておけ」  八丁堀というのは、かねて佐七がごひいきにあずかっている与力の神崎甚五郎《かんざきじんごろう》である。  さて、お伺いしてみると、甚五郎の御用というのはこうであった。 「佐七、どうも困ったことが出来《しゅったい》いたした。これは表向きにならぬことゆえ、働いてもらっても手柄にならぬかもしれぬが、そちを見込んでたのみたい」 「へえ、それはもう、日ごろごひいきになっておりますことゆえ、あなたさまのおっしゃることなら、水火もあえて辞しませぬが、それで、御用とおっしゃるのは」  佐七はひざを乗りだした。 「ほかでもない。番町に土岐頼母《どきたのも》というお旗本がある。神君いらい、由緒ある名家で、千五百石の大身だが、その頼母どのがけさ亡くなられた」 「へえ、すると、そのご最期になにかお疑いでも」 「いや、これは医者がついていることゆえ、べっして疑わしいことはないが、もんだいはその跡目相続だ。頼母どのにはふたりのご子息がおありになる。兄が藤之助《ふじのすけ》どのとて当年十八歳、弟を千弥《せんや》どのともうされて十二歳。むろん、順当ならば、ご嫡男藤之助どのが跡目相続をされるはずだが、かんじんの藤之助どのというのが昨春いらい、どうしたことか、おゆくえがしれぬそうだ」 「へえ、これはまた——」 「屋敷においても、うちうちで捜索中だったらしいが、いまにいたるもあいわからぬ。で、土岐家親族一統では、次男の千弥どのを跡目にと、本日大目付さままで申し出られたそうだが、嫡男ご死亡とあればともかく、いまのところそういうわけにはまいらぬ」 「ごもっともさまで」 「といって、由緒あるお家柄ゆえ、なるべくならば傷をつけずに、おんびんに跡目を立てさせて進ぜたいと、お上のかくべつのご慈悲だが、どこのうちでも、たたいてみればほこりのでるもの」 「なるほど。すると、土岐様にもなにか、こみいった事情があるんでしょうな」 「されば、ご嫡男、藤之助どのというのは、頼母どのが腰元に手をつけてうませたもの。生母はとっくに亡くなられたそうだが、それにはんして、千弥どのこそは、まさしく奥方のお腹だ」 「はてね、よくあるやつだが、それで奥方が……」 「いや、そうもいえぬ。この奥方というのは、まことによくできたお女性《にょしょう》だという評判だが、どうも生家《さと》の後押しがあるのではないかとおもわれる」 「生家というのは」 「鵜飼采女正《うがいうねめのしょう》どのともうして八百石の知行取り、奥方の実兄にあたられるが、頼母どののほうによき親戚《しんせき》がないところから、ばんじ取りしきっておいでになる。なかなかの器量人だ」 「さようでございますか。そして、あっしはなにをすればよろしのでございますか」 「それよ。藤之助どののゆくえを調べてもらいたいのだが、まえにも申すとおり、お上にもなるべくことを荒立てぬようにとのご配慮ゆえ、その旨をよくふくんでいてもらわねばならぬ」 「よろしゅうございます。ひとつ働いてみましょう。しかし、もうすこしくわしく聞かせてくださいまし。藤之助さまは、いったいどういうふうにして、姿をおかくしなすったのでしょう」 「されば、土岐どのには小梅に下屋敷があるが、去年の春ごろより、藤之助どのは、なにやら気分がすぐれぬともうされて、その下屋敷のほうへ保養にまいっていられたところが、ある晩、とつぜん姿が見えなくなられたと申すことだ」 「なるほど。しかし、その下屋敷には、どうせご家来のひとりやふたりは、ついていかれたことでしょうが、どうでしょう、そのひとたちに当たってみては」 「ところが、そのものどもは、若君を見失ったというとがでおいとまとなり、いまでは、どこにいるやら、わからぬと申すことだ」 「ようがす、そのほうからひとつ探してみましょう。念のためにお伺いいたしますが、そのご家来のお名前はわかりませんか」 「されば、ひとりは梁川甚兵衛ともうして、藤之助どのつきの御用人、いまひとりは下郎で、たしか源助とかもうした」  梁川甚兵衛と下郎の源助、なんと、さっきふぐにあたって死んだ男たちではないか。  ここにいたって、人形佐七、めぐりあわせのあまりにも意外なのに、おもわずあっと肝をつぶした。  覆面の武士   ——あわれお雛《ひな》はひっかつがれて 「親分、神崎様の御用というのは、どんなことでございましたえ」  声かけられて、佐七はぼんやり顔をあげた。 「おお、辰、せっかくだが、こればっかりはおまえにもいえぬ。神崎様からかたく口止めされたんだ」  八丁堀のお役宅を辞したのが、かれこれ六つ半(七時)。冬の夜のやみはこおって、師走のちかい風がゾーッとえり元にしみて寒いのである。  佐七は、心に思うところがあるから、黙々とかたらぬが、こうなると手持ちぶさたなのはきんちゃくの辰。かたときも舌を動かしておらずにはいられないのが、この男の性分だ。 「ねえ、親分、あっしゃアどう考えても、業腹でたまらねえ。ほら、あの娘よ。へんてこなすり騒ぎなんかおこしゃアがって、どうでもくさいのはあの娘だ。いかり床のそばで捕らえちまえばよかったんじゃねえかと、さっきから、しみじみ臍《ほぞ》をかんでいるんでさ」 「ああ、あの娘か。あれなら気遣いはねえよ。ほっておいても、いまにむこうから、おいらのふところへ飛びこんでくるのさ」 「へえ、そんなにうまくいきますかね」  辰は半信半疑のてい。 「いくとも、辰、それじゃ夜道のつれづれに、おまえにひとつなぞ解きをしてやろう。てめえは、このあいだからのすり騒ぎを、いったいなんと心得る。ありゃアみんなあいつらが、おれという男をいかり床の横町までおびきだそうという魂胆よ。わかったか」 「わからねえ」 「ふっふっふ、しようのねえやつだ。まあ、聞きねえ。辰、お江戸はずいぶんひろいんだぜ。それだのに、よりによって、われわれの鼻先ばかりで、ああいう騒ぎがおこるというのは、いってえどういうわけだ。つまり、あいつら、おいらのお通りを待っているのさ。まずだいいちが水天宮よ。おまえたちのこったから、ああいうところをみれば、家へかえって、きっとこのおれにしゃべるだろう。そうすれば、そのつぎ、おれがおなじような場面をみれば、かならずあとをつけていく。つまり、それがむこうのねらいどころで、あれはみんなおいらに怪しまれて、あとをつけてもらいたさの茶番狂言さ」 「へへえ。しかし、なんだって、そんなまわりくどいことをしやアがるんだろう。はなしがあるなら、じかにやってくりゃアいいじゃありませんか」 「なに、おおかた、ひとに知られたくないはなしなのさ。だから、辰、心配するな、いまに娘のほうから、おれのところへやってくるぜ」 「はてな。親分、おまえさんのうぬぼれもいまにはじまったことじゃねえが、そううまく問屋がおろしますかね」 「おろすとも。辰、ご苦労だが、てめえちょっと、首をうしろに曲げてみねえ。お目当てさんは、ちゃんとそこへきていらっしゃらアな」  いわれて、辰はあっと二、三歩とびのいた。  いつのまにちかづいてきたのか、お高祖頭巾《こそずきん》の女がひとり、ひたひたと寄り添うように歩いているのだ。 「親分さん、まことに恐れいりました。さすがは、江戸一番とうわさにたかいお玉が池の親分さん、なにもかもお見通しでございます」  お高祖頭巾の女がよってくるのを、辰は気味わるそうによけながら、 「こう、こう、ねえや、あんまりそばへ寄らねえでくんねえ。ああ、おどろいた。気味のわるい女だ」 「ごめんくださいまし。このあいだから、親分さんにおちかづきになりたいと、どのように苦心いたしましたかしれませぬ。しかし、遅すぎました。梁川様はとうとうあのような最期、こうなってはいっこくも猶予はならじと、ぶしつけながらあとを慕ってまいりました」 「いや、よくわかりました。お女中、あなたは土岐様のご家中でしょうね」  図星をさされたが、娘はべつにおどろきもせず、 「はい、腰元の雛《ひな》ともうします」 「そして、あなたのおはなしというのは、藤之助さまのおゆくえをさがしてほしいとおっしゃるんでしょう」 「恐れいりました。そうなにもかもご存じならば、つつまずおはなしいたします。お家はもう大乱脈、奥方さまをはじめとして、奥方さま兄上鵜飼采女正さま、ご家老|河田権右衛門《かわだごんえもん》さま、このおかたたちが腹をあわせ、ご嫡男、藤之助さまをどこへやら押し込めもうし、梁川さまや、源助どのはおいとまになりました。わたしはくやしくてなりませぬ」  雛は涙ぐんでいるらしく、しょんぼりとうなだれている姿があわれである。 「わたしはおふたかたと力をあわせ、手をつくして、若様のおゆくえをさがしましたが、とてもわれわれの力にはおよびませぬ。それで、親分さんのお力をおかりしようとおもったのですが、なにぶんにも、こと荒立ててはお家にきずのつくこと、ひそかにおねがい申し上げたいと、あのような狂言かいて、親分さんをひとしれず梁川さまのご浪宅へご案内するつもりでございました。しかし、その梁川さまも、ああして人手におかかりなされて……」 「すると、お雛さま、あなた、やっぱりあれを毒害だとおっしゃるんで?」 「はい、それにちがいございませんとも。ふぐの毒とみせかけて、だれかがふたりを殺したにちがいございませぬ。梁川さまは藤之助さまつきの御用人、なにかとじゃまになったのでございます。おいたわしい梁川さま、味方はことごとく遠ざけられ、いまごろは、どこにどうしておわすことやら……」  お高祖頭巾のしたで、お雛は声をのんでむせび泣いた。 「お雛さま、しかし、おまえさんはどうしてまた、とくべつ藤之助さんの肩をおもちなさるんで」 「わたしは若様と乳姉弟《ちきょうだい》でございます。もったいのうはございますが、若様を他人とはおもえませぬ。親分さん、おねがいでございます。若様をお探しくださいまし」  忠義にこった腰元雛が、ながす涙は血の涙、よよとばかりに、やみのなかでしゃくりあげた。 「ときに、お雛さま。さっきあっしの身内のもので、豆六ともうすものが、あなたさまのおあとを慕ってまいったはずでございますが」 「豆六さまとおっしゃいますと」 「えっへっへ、豆六さまなんて柄じゃありませんや。うらなりのきゅうりみてえに、いやにひょろなげえ顔をした野郎で、額からあごまで、ずうっと見おろすと、日が暮れるという、一名これを日暮らしの顔」  辰のことばに、 「ほっほっほ」  と、雛はさびしくわらって、 「いいえ、そのようなかたには、いっこう心当たりがございませぬが……」 「はてな、豆六のやつ、どうしやアがったのかな」  と、佐七が小首をかしげているとき、むこうからバラバラと、こちらへちかづいてきた怪しの影。  佐七はやみのなかできっとこれをみて、 「おや、辰、気をつけろ。お雛さま、ご用心なさいまし」  十手をとって、四方八方に目をくばったとき、いつのまについてきたのか、はやうしろからも三、四人、バラバラと三人を取りまくと、いきなり、お雛のからだをひっかついだ。 「あっ、なにをしやアがる」  かけよる佐七のまわりには、ズラリと白刃のふすまである。  みると、みんな黒装束覆面の侍、黙々として、佐七が右へよれば右、左へよれば左へと、白刃のふすまはおもむろに移動する。  一言も口はきかないのである。 「あれえ、親分さアん!」  むこうでお雛の声が聞こえたが、それもつかのま、さるぐつわでもはめられたのか、やがてしんとしずかになって、タタタタと大地をけってはしる音のみ。お雛はついにさらわれたのだ。 「こん畜生!」  きんちゃくの辰は、業をにやしたか、おもてもふらず白刃のふすまにおどりこんだが、とたんにさっと白刃の稲妻、峰打ちくってひっくりかえった。 「あ、おのおの、傷をつけてはなりませぬぞ」  と、頭立ったものの声。やがて、ときをはかって、 「それ、一同!」  合図とともに、さっと白刃を引いたかとおもうと、あとはタタタと、潮のひくごとく散っていく足音。  あとには佐七が、ぼうぜんとして立ちすくんでいた。  その夜、豆六はかえってこなかった。  相手は千五百石   ——おれの命なんかひと山いくら 「兄い、うちかえ」  その翌日、お玉が池の佐七の住ま居へ、ひょっこり顔をだしたのは、黒門町の弥吉である。 「おお、黒門町の、よくきておくんなすった。で、なにか目星はついたかえ」 「それがすこし妙なのさ」  弥吉は当惑したように、 「おまえさんのはなしもあるから、おれゃ念には念をいれて、三人の医者にみてもらったんだが、だれのいうのもおなじこと。ありゃアやっぱりふぐの毒にちがいねえというぜ」 「なに、やっぱりふぐか」  佐七はきいてがっかりした。 「どうもそうらしい。あっしもそれで、ほうぼうの魚屋をきいてまわったんだが、すると、浜町河岸の魚屋で、きのう源助に、ふぐを一匹売ったというのがある。そのとき、くわしく料理のしかたを教えたそうだが、源助め、鼻であしらってかえったということだから、料理のしかたをまちがえて中毒したとしか思えねえんだ」 「なるほどなア」 「なにしろ、あいてがふぐじゃどうにもならねえ。せっかくだが、兄いにちょっとことわりにきた」 「おお、そうか。なるほど、ふぐじゃ十手風もきかねえな。いや、ごていねいにありがとう」  弥吉がかえったあと、佐七はうかぬ顔をしていたが、やがて辰を呼びよせると、 「辰、豆六はどうしたんだろうな」 「親分、ひょっとすると、あの野郎、ゆうべの一味にとっつかまったか、殺されたか……」 「まさか殺しはしまいが、それについておまえに頼みがある」 「なんですえ、あらたまって」 「わるくすると命のない仕事だが、おまえ、きいてくれるかえ」  佐七はいやにしんみりしていたが、聞くなり辰はプッとふくらせた。 「べらぼうめ、親分、水くせえこたアいいっこなしにしやしょう。それに、豆六のこともある。はばかりながら、あっしの命なんか、ひと山いくらという口だ。こいつが役に立つんなら、こんなありがたいことはねえ。で、御用というのは」 「ありがたい、辰、よくいってくれた。じつはこうだ」  なにやらささやかれて、 「へえ、すると、番町の土岐屋敷へ忍び込むんで」 「そうよ、むこうは十手風のきかねえご大身のお旗本だ。みつかって、笠《かさ》の台がとんだところで、どこへしりをもっていくわけにもいかねえ」 「おもしろい、やりましょう。千五百石があいてならやすくはねえ。ひとつ、大暴れにあばれてやりまさア」 「これこれ、暴れちゃいけねえ。豆六だって、まだ殺されたときまっちゃいねえ。それに、むこうは殿様ご他界で、取りこみの最中とおもうから、そこがつけ目だ。うまくやってくれ」 「おっとがってんだ」  辰はその晩、番町の土岐屋敷へしのびこんだが、さてどうなったかなしのつぶて、朝になってもかえってこないから、佐七はきつい心配だ。  お粂はなにも知らぬらしく、 「おまえさん、辰つぁんも豆さんも、またゆうべかえらなかったね。どこへしけ込んだのかしらないが、少しはおまえさんいっておくれよ。ちかごろ少し度がすぎますよ」 「黙ってろ。しけ込みはしけこみでも、辰も豆六も、ひょっとしたら冥途《めいど》とやらへしけ込み……」 「え?」 「なに、こっちのことよ。なあ、お粂、今夜はひょっとすると、おいらもかえらねえかもしれねえ」 「あら、おまえさん、どこへおいでだえ」 「辰と豆六をむかえにいくのよ。はっはっは、ミイラ取りがミイラになるかもしれねえから、お粂、おまえもその覚悟でいてくれろ」  きりりと柳眉《りゅうび》を逆立てるかと思いのほか、お粂はじっと佐七の顔をみて、 「おまえさん、それじゃ土岐様のお屋敷へ……いいえ、知ってますよ。やきもちをやくばかりが女房の能じゃない。おまえさんも死ぬ覚悟で……」  お粂はおもわず声をうるませる。 「泣くな。おまえも御用聞きの女房じゃねえか。なあに、おれは辰と豆六みたいにドジは踏まねえつもりだ。が、まあ、ふんどしだけはあたらしいのを締めていこう」  いざとなれば千五百石抱きこんで死ぬつもりの人形佐七、まあたらしいふんどしをきりりとしめて、その晩、土岐屋敷へ忍びこんだが……。  穴蔵の若殿   ——白い仮面が幽霊か幻のように  こちらは番町、土岐屋敷。  あしたが頼母《たのも》さまのお弔いで、今宵《こよい》はうちわばかりのお通夜であった。  夜がふけると、どういうわけか、家来、近習ことごとくとおざけ、ぴったり雨戸をしめた奥のひと間には、頼母さまのご遺骸《いがい》。まくらもとには逆さびょうぶ。線香の煙もしめやかに、ついているのは奥方に、奥方の兄鵜飼采女正、それから家老の河田権右衛門、一徹らしい老人だが、みんななんとなく打ち沈んでいるのは当然だろう。  佐七はもはや命がけである。  見つけられたら殺されることはきまっているが、こうなってはあとへはひけぬ。  とくいの忍びで、奥庭へしのびこむと、さいわいの雨戸の節穴。そこから息をこらして、なかのようすを伺っていると、それとは知らずなかの三人、そっとあたりを見まわすと、なにやら意味ありげなめくばせ。やがて、権右衛門はツツーと畳をすべると、床の間の置物をかたづけだしたから、 「はてな、なにをするのかな」  と、佐七がかたずをのんでいると、やがて権右衛門と采女正が、床の間の畳をあげはじめたから、佐七はいよいよおどろいた。  床の間のしたは、穴蔵になっているらしい。  権右衛門が合図をすると、やがてミシミシというかるい足音、だれか穴蔵からのぼってくるのである。  佐七はおもわず身ぶるいをした。  ふかく考えるまでもなく、穴蔵に押し込められているのは、まさしく若殿藤之助にちがいない。 「畜生、ひどいことをしやアがる」  佐七がおもわず歯ぎしりをしたとき、穴蔵のなかから出てきたのは、意外、意外、ゆうべの腰元のお雛《ひな》ではないか。  さては、お雛もあれからむりむたいに、ここへ押し込められたのかとおもったた、どうやらそうでもないらしい。お雛はしとやかに三人に一礼すると、穴蔵のなかからだれか助けだした。  こんどこそ若殿にちがいなかった。  お雛のかげになって顔は見えぬが、なりかたち、藤之助さまにちがいない。  藤之助さまはお雛に手をとられ、よろよろと、父の遺骸のそばへよると、 「父上様!」  はらわたをたつような悲痛な声だ。  藤之助さまはひしと白布に顔をおしあて、声をしのんでむせび泣いた。  とたんに、お雛はもおすにおよばず、奥方はじめ、采女正も権右衛門も両手で顔をおおうと、むせび泣きをはじめたから、おや、これは風向きがかわったぞと、佐七はおもわず小首をかしげた。 「父上様、藤之助でございます。果報つたなく父上さまのご臨終にもお目にかかれず、藤之助、いかばかり悲しゅうございましたでしょう。父上様、父上様、わたしは世にすてられたからだでございます。神にすてられたからだでございます。お慈悲ぶかい母上や、伯父上《おじうえ》、また権右衛門の情けで、いままで命をつないでまいりましたが、父上様お亡くなりあそばしては、もはやこの世に未練はございませぬ。父上様、いずれあとおいかけて、きっと、冥途《めいど》でお目にかかります。父上様……」  あとには嫋々《じょうじょう》としてむせび泣くばかり。  藤之助も泣く。奥方も泣く。采女正も泣く。権右衛門も泣く。  お雛にいたっては、身をもんで泣きに泣いた。  佐七はあまりに意外なこの光景に、しばしぼうぜんとして、この場のようすをながめていたが、そのうちに、ふと頭をあげた藤之助の顔をみたとたん、ジーンと、からだがしびれるようなおどろきに打たれたのだ。  若殿様は世にも奇妙な、なんともいえぬ気味わるい仮面をかぶっていた。  哀れ若殿   ——ふぐなべだけは、およしなさいまし 「そういうわけで、だんな、あっしもいちじは驚きましたが、こうなりゃザックバランに、なにもかも打ちあけあったほうがいいと思って、雨戸をひらいてとび込みました」  その翌日の朝まだき。八丁堀の神崎甚五郎のお役宅をおとずれた佐七は、まだもらい泣きののこっている目を、真っ赤にしばたたいていた。 「話しあってみると、まことにおいたわしおはなしで、奥方さまのご心中をお察し申し上げると、あっしゃ柄にもなく泣いてしましました。はっはっは、鬼の目にも涙たア、だんな、ほんとにこのことでございますねえ」  甚五郎もはなしを聞くと、あまり意外な真相に唖然《あぜん》としたが、そこは情けをしる武士のこと、しだいに暗涙をもよおしながら、 「さようか、そういう子細があるとはつゆ知らなんだ。なるほど、藤之助どのがそのようなご病気を患うていられるとあっては、他聞をはばかるのあまり、いろいろ小細工をされたのもむりはないな」 「さようでございます。藤之助さまをあのような穴蔵におかくまいなされたのは、むしろ奥方さまのお慈悲でございましょう。ですから、だんな、こうなったうえは、ご次男千弥さまがしゅびよく家督相続できますよう、お上へおとりなしなさるのが道だろうと存じます」 「いや、よくわかった。さっそくその由を大目付さままで申し上げよう。しかし、佐七、藤之助どのはどうして、そのようなご病気におかかりなされたのであろう。あれはたしか、うちに伝わる血のせいだと申すことだが」  この時代にはまだ藤之助がわずろうている病気が遺伝だと信じられていたのである。 「そうなんで。なんでも、ご生母さまとおっしゃるかたが、その筋だそうで。よくその血統をただしもせずに、お腰元に召し上げられたのが不覚のもと。そのじぶん、まだ病のきざしもみえず、それはそれはおうつくしかったそうで、つい殿様もご存じなく、お情けをかけられたということでございます。ところが、若君ご誕生まもなく、そろそろ顔に病のきざしが現れたともうすことで」  佐七はいかにも心苦しそうに顔をしかめた。  あわれ藤之助さまは、千五百石の大身のご嫡男にうまれながら、誕生の当日より、すでにのろわれた運命にあったのだ。 「ご生母さまは、病のきざしが現れるとまもなく、ご自害をしてお果てになされたので、このことを知るものは、殿様ならびに奥方をのぞいては、鵜飼采女正様、河田権右衛門様のほかに、だれひとりとてございませぬ。さて、こうなると、気づかわれるのは若殿さまのこと。殿様はいっこくもはやく藤之助さまを若隠居として、ご次男千弥様を跡目とさだめたいとおぼしめされたそうですが、それでは奥方の義理がすみませぬ。それで、一日一日とのばしているうちに、去年の春ごろより藤之助さま、なんとなくからだがだるいとおっしゃって、梁川甚兵衛、源助の両名をひきつれ、小梅の下屋敷へおでかけになったのでございます」 「なるほど。すると、あのころより、そろそろ病のきざしがみえはじめていたのだな」 「さようで。しかし、若殿さまはもちろん、そのようなことはご存じない。ましてや、梁川甚兵衛も源助も、まったく気がつきません。ところが、ある日、ご家老の河田権右衛門さまがお見舞いに参上して、はっとそのことに気がつかれました。そこで、お屋敷へかえると、この由、殿様に言上して、奥方や鵜飼采女正さまと鳩首《きゅうしゅ》ご相談のうえ、その夜のうちに、ひそかに若殿をお屋敷へおつれして、あの穴蔵へおかくまい申し上げたのだそうでございます」 「しかし、なぜそのことを、梁川にはからなんだのであろう」 「それというのが、梁川甚兵衛や源助は、お屋敷にとっては譜代の家来ではなく、新規お召し抱えの新参ものゆえ、なんとも心をはかりかねたと申すことで。そのかわり、甚兵衛のほうはあらためて千弥さまつき御用人としてめしかかえる所存であったと奥方様のおことばでございます。ところが、梁川甚兵衛のほうでは、そのようなことはゆめにも知るよしなく、ひたすら奥方一味のご陰謀と曲解して、源助と力をあわせて、いろいろ藤之助さまお救い出しのために骨を折っていたようでございます。いや、なんと申してもご大身ともうすものは、むつかしいものでございますな」  佐七はにが笑いをしたが、甚兵衛がそう曲解したのもむりはない。  おなじお屋敷にいるお雛さえ、奥方の心中を忖度《そんたく》できず、ひそかに甚兵衛と通謀して、若殿をおすくいしようと、苦心していたのだから。  お雛はあの晩、家中の侍によって、むりむたいにお屋敷へつれかえられ、奥方の口より、はじめて、かなしい若殿の身のうえをきいたのである。 「かわいそうに、あの娘は、生涯《しょうがい》、若殿のお守りをして、ご他界のあかつきには、尼になるともうしております」  佐七はあのうつくしい娘が尼になるのかとおもうと、われにもなく熱いため息がでる。 「ところで、佐七、辰や豆六はいかがいたした」 「ああ、辰と豆六ですか。あいつらもけなげなやつで、ふたりとも首尾よくお屋敷へしのびこみましたが、運悪くつかまって、お蔵のなかへ押し込められていたのを、わけを話してあっしがもらってまいりました」  その辰や豆六は、のちにいたるまで、土岐屋敷でみた白い仮面をかぶった男のことをはなし、あれはきっと幽霊にちがいないと、固く信じてうたがわない。  ふたりともよっぽどあの仮面が、薄気味悪かったらしいのである。 「そうすると、佐七、梁川甚兵衛や源助の死んだのは、べつに毒を盛られたわけではなく、あれはやっぱり、ふぐの中毒であったのか」  そう聞かれると、佐七ははじめて、ほがらかにわらって頭をかいた。 「いや、だんな、面目次第もございませぬ。あればっかりは、佐七一世一代の大しくじりでございました。場合が場合だけに、あっしもすこし考えすぎました。あいつはやっぱり、ふぐにあてられたにちがいございません。いや、梁川甚兵衛というひとも、よくよく運の悪いひとですが、それにつけても、だんな、爾今《じこん》、ふぐなべだけはおよしなさいまし」     白痴娘  雪だるま坊主持ち   ——いまいましいこの雪だるまめ 「しめたッ、ほら、兄い、雪だるまや」 「てへへへッ、畜生、たったいま、てめえに渡したばっかりじゃねえか」 「そんなこというたかてあきまへん。約束やでしよがない」 「だって、豆六、さっきてめえに渡すまで、おらア五町あまりも、そのお荷物を背負うてきたんだぜ。それをやっとむこうの辻《つじ》で雪だるまを見つけてよ。やれ、うれしやとてめえに渡して、それから何歩あるいたと思う。ものの二十歩とあるいちゃいねえ。そんな殺生なこといわねえで、この雪だるまだけは見のがしてくれ」 「あかん、あかん、たとえ二十歩が一歩でも、雪だるまに出会うたがさいご、肩代わりするのが坊主持ちの定法や。やあ、親分、そやおまへんか」 「はっはっは、これは豆六のいうとおりだ。辰、かわってやれ」 「だって、親分、さっきだって、豆六に渡したと思ったらすぐ雪だるま、それからあっしゃ五町あまりも背負わされて……最初から勘定してみると、あっしばっかり背負うているようなものじゃございませんか」 「そりゃア、てめえに運がないからよ。だいたい、これはてめえがいい出したことだ。いい出しべえのなんとやら、愚痴をいわずに、男らしくかわってやれ」 「それ、親分のおことばや、早くかわったり、かわったり」 「チョッ、いまいましい」  いわゆる坊主持ちというやつである。  きょうは師走の十五日、お玉が池の人形佐七は、ひさしくごぶさたしていた音羽のこのしろ吉兵衛《きちべえ》、このひとは佐七の親代わりともいうべき人物で、御用聞き仲間の大先輩だが、そこへ歳暮のごあいさつにうかがったところ、まあいっぱいというわけで、ほどよくごちそうになったのはよかったが、さてそのかえるさである。吉兵衛の女房お千代というのが、ちょうどよいところだった、お粂さんに頼まれていたものがやっとできたから、ついでに持ってかえっておくれと、持ち出したのが欝金《うこん》木綿の大ぶろしき、ひとかかえもあろうかというお荷物である。  これには辰も豆六も、顔見合わせて、辟易《へきえき》したが、まさか、いやというわけにもいかない。  おまえ持て、いや兄い、あんたにまかせまっさと、たがいに譲りあったあげくが、ちょうどさいわい、師走にはいってから降りつづいた雪に、町の辻々《つじつじ》に雪だるまができている。  そこで、坊主持ちのかわりに雪だるま持ち、すなわち雪だるまに出会うたんびに肩代わりといこうじゃないかと、いいだしたのがきんちゃくの辰。ところが、いい出しべえのなんとやらで、辰とはなはだ歩がわるく、かれがかつぐだんになると、なかなか雪だるまに出会わない。  やっと出会って、やれうれしやと、豆六にわたしたかと思うと、すぐ雪だるまにぶつかるというわけで、音羽からこの加賀っ原へさしかかるまで、まるでひとりでかついでいるようなものだから、ぶつぶついうのも無理はなかった。 「チョッ、音羽のあねさんもあねさんだ。いい若い者に、こんなお荷物を背負わせてよ。まるで買い出し部隊みたいで、かっこうがつかねえ」  まさかそんなことはいゃアしない。 「あっはっは、ぶつぶついわずに早くかつげ。みなさんが笑っていらっしゃるじゃねえか」 「笑うやつは、かってに笑わせておけ。いったい、だれが、こんなところへ、雪だるまをこさえやがった」  大ぶろしきをかつがされたきんちゃくの辰、いまいましそうに雪だるまを足蹴《あしげ》にしたが、きょうはわりに暖かだから、雪がゆるんでいたとみえる。  雪だるまは骨をぬかれたように、ぐずぐず肩からくずれてきたが、そのとたん、佐七やおやと足をとめた。 「おお、辰、豆六、ちょっと待て」 「へえ、親分、どうかしましたかえ」 「あそこにのぞいている赤いもの、あれゃアなんだ」 「布みたいだんな。いったいなんやろ」  豆六はふしぎそうな顔をして、雪だるまからのぞいている赤い布をひっぱったが、そのとたん、ばさっと雪だるまが四方へくずれて、なかから出てきたのは、なんと、腰巻きひとつの娘の死体。島田の髷《まげ》ががっくりくずれて、雪をあざむく玉の膚が、死蝋《しろう》のように凍えているのが、すごいともなまめかしいともいいようのない姿であった。  おびえおののく白痴娘   ——人並み以上の器量を持ちながら 「わっ、こら、人殺しや!」  豆六がとんきょうな声をあげたから、たちまち野次馬がバラバラ集まってくる。 「おっと、寄っちゃいけねえ、よっちゃいけねえ。人殺しだとすれば、なにかそのへんに証拠になるものが落ちているかもしれねえ。だれもそばへ寄っちゃならねえぞ」  佐七は野次馬を遠ざけると、娘の死体をのぞきこんだ。  年は十七、八、番茶も出ばなという年ごろで、すごいような美人である。  絞殺されたとみえて、のどのところに紫色のあざがついている。 「おい、豆六、その娘、右手になにやら握っているじゃねえか。ちょっと取ってみろ」 「へえ」  なるほど、握りしめた娘の指のあいだから、なにやら細いひものようなものがのぞいている。  豆六がいっぽんいっぽん指をひらいてみると、手のひらに握っているのはこよりであった。  つかみあう拍子に、ひきちぎったとみえて、一端がプッツリ切れている。  佐七がそれをひらいてみると、 またのお目もじを楽しみに、あらあらかしこ 恋いこがるる いとより  と、ただそれだけ。どうやら手紙の切れはしらしいが、かんじんのあて名のところが破れているので、あいてはだれやらわからない。  佐七はそれを懐中にしまうと、むらがる野次馬を見回して、 「だれか、この娘を見知っているものはねえか。辰、ちょっと娘の顔をあげてみろ」 「おっとしょ」  辰が娘のからだを抱き起こすと、  あっ——と、野次馬がたじろいだ。 「おお、それじゃ知っているんだな。いったい、どこの娘だえ」 「ええ、親分に申し上げます」  もみ手をしながら歩み出たのは、町内の鳶頭《かしら》といったふうな男であった。 「その娘さんなら、ついこのむこうの旅籠町《はたごちょう》の金物屋、槌屋《つちや》の二番娘で、お糸さんというものでございます」  お糸——ときいて、佐七の目はちかりと光った。  死人のにぎっていたこよりは、それではこの娘がかいた手紙だったのか。 「そうか。よし、それではだれかすぐこのことを、槌屋へ知らせてやれ。それから、町役人と、近所の医者をつれてきてくれ」  言下に野次馬が二、三人、バラバラとかけだしていったが、やがて、血相をかえてかけつけてきたのは、それがお糸の両親だろう。  五十がらみの白髪のおやじと、三十五、六の、どこかあだっぽい色香のある年増だった。  ふたりはお糸の死体をみると、狂気のごとくとりすがって、しきりに名まえを呼んでいたが、いくら呼んでも、もはや生きかえるはずもなかった。  佐七は無言で、ふたりの姿を見ていたが、そのとき、ふと目についたのは、ふたりのうしろから怖そうに、おずおずと、死体をのぞきこんでいるひとりの娘、どうやらお糸の姉妹らしく、どこか、面立ちに似通ったところがあるが、姉妹とすると、このほうが姉だろう。  二十一、二である。  この娘をみて、佐七がふしぎに思ったのは、姉ならば妹のむざんな死にざまを見て、嘆かねばならぬはずだのに、いっこうそういうようすもなく、たもとを口に当てたまま、ただ、おびえたように、おどおどしているばかりである。 「ちょっとお尋ねいたします」  おりから駆けつけてきた町役人に、佐七はそっとささやいた。 「むこうに立っていらっしゃる娘御は、やはり槌屋さんの……」 「はい、さようで。槌屋さんの姉娘、お袖《そで》さんというんです。殺されているお糸さんの姉ですが、姉妹といっても腹ちがい、お糸さんはそこにいるお近さんの子でもですが、お袖さんは先妻ののこしていった娘なんです」  どうりで、槌屋の娘としては衣類も粗末だし、妹の死にたいしても、ああ気強くいられるのであろうと佐七は思った。 「なるほど。しかし、見ればもうそうとうのお年のようだが、まだおかたづきではないのですか」  婚期のはやかったその当時として、貧乏人ならばともかくも、表通りに店を持っているほどの身分の娘で、二十一、二まで縁付かぬというのはめずらしかった。  しかも、お袖は妹におとらぬよい器量である。 「へえ、それが……あのひとはたいへんお気の毒な娘さんで……」 「お気の毒とは……? どこかお悪いところがあるんですかえ」 「はい、もとはたいそうりこうな娘さんでしたが、六つのときに高熱を患って、おツムがすこうし……」  ときいて、佐七はおもわず目をみはった。  いまでいう脳膜炎というやつだろう。  これが醜いうまれででもあろうことか、人一倍すぐれた器量にうまれながら、おツムが少しおかしいとは、その哀れさが、いっそう身にせまるのである。 「あれがふつうの娘さんなら、だれがほっておくものですか。とうによいところへ、おかたづきになっているはずですが、なにをいうにも白痴では……それに、槌屋さんはかいわいきっての物持ちですから、へんな縁組みもできませんしねえ。あたら器量の持ちぐされで、お気の毒なもんだと、みんないってるんです。でも、気質《きだて》はほんとに優しいひとです」  白痴のお袖はふっとこちらを見たが、佐七とかっきり視線があうと、おびえたように目をそらし、そのままくるりと背をむけると、逃げるように野次馬のなかへかけこんだ。  はてな。——と、佐七はおもわず首をかしげる。  あの白痴娘は、なにをあのようにおびえているのであろうか……。  今様お半|長右衛門《ちょうえもん》   ——大店《おおだな》の娘としては相当なもの 「それじゃ、お糸さんはころされてから、三日たっているというんですね」  それからまもなく、もよりの自身番へお糸の死体をかつぎこんだところへ、近所の医者がかけつけてきた。 「そうくわしいことはわからぬが、だいたいそんなところであろうと思いますな。それにしては、死体にかわりのないのがふしぎだと思われようが、それはたぶん、雪のなかに埋まっていたせいでしょうな」 「おい、辰、豆六、おまえたち、あの近所をかけずりまわって、雪だるまはいつできたか、調べてこい」 「おっと、合点だ」  辰と豆六がかけだそうとするうしろから、 「いや、それにはおよびません。親分、あの雪だるまのできた日なら、わたしがよくおぼえております」  ふたりを呼びとめたのは、町内の番太郎だった。 「おお、それは好都合だ。そして、とっつぁん、それはいつのことだえ」 「はい、あれは十二日の晩のことでございます。昌平橋《しょうへいばし》のむこうにかたづいている娘のところから、産気づいたから、すぐ来てくれという使いがあったので、雪のなかを出かけました。そのせつ、加賀っ原のそばを通りすぎたのですが、あんな雪だるまなど、できてはおりませんでした。ところが、お産も無事にすみましたので、翌朝、早くかえってきましたが、そのとき、ふと見ると、あの雪だるまができているのでございます。はてな、行きにはこんなものはなかったはずだのに、夜のうちに雪だるまをつくるとは、さてもすいきょうな人もあったものだと、そう思ったものですから、よくおぼえているのでございます」 「なるほど。そして、とっつぁん、十二日の晩、おまえがそこを通りすぎたのは、何刻《なんどき》ごろのことだったえ」 「はい、五つ半(九時)ごろのことでした」 「そして、かえりに通りかかったのは」 「十三日の朝の六つ(六時)ごろでございましたろうか。娘はもっといてほしかったらしいんですが、こっちも年の暮れでいそがしいものですから……」 「なるほど。すると、あの雪だるまのできたのは、十二日の晩の五つ半から、十三日の朝の六つまでのあいだということになるな。いや、ありがとう、これでだいぶ手間がはぶけたよ。ときに、槌屋のだんな」 「はい」  槌屋のあるじ治兵衛は、涙にぬれた顔をあげた。老いの目に、悲痛のいろがいたいたしい。 「お宅さんでも、むろん、お糸さんのゆくえをさがしていられたのでしょうが、お糸さんはいつごろから姿がみえなくなったのでございますえ」 「はい、十二日の晩からでございます」 「お糸さんは十二日の晩、どこかへお出かけでも……」 「はい、神田|鍋町《なべちょう》の知り合いのもとへ出かけたきり、とうとう、かえってこずじまいで……」  治兵衛はそっと鼻をすすった。 「鍋町のお知り合いというのは……まさか、まちがいのあるようなおひとではございますまいね」 「とんでもない。柏木《かしわぎ》の大番頭、忠助さんというかたでございます」 「柏木というと、あの大伝馬町の……」 「はい」  大伝馬町の柏木といえば、そのころ江戸でも一、二にあげられるくらいの金物問屋、たいした身代である。  そういう店の大番頭ともなれば、むろんべつに家を持っていて、小さな店のあるじより、万事、格式ばっていたものである。 「なるほど。そして、柏木の番頭さんとお宅とは、どういうお知り合いでございますか」 「はい、それは……」  治兵衛はちょっと口ごもったが、いわずにすませることではないとおもったのか、思いきったように、 「ちかく忠助さんを、養子に迎えるはずになっておりました。柏木のだんなの仲人で……」 「ご養子と申しますと、お糸さんのお婿さんでございますか」 「はい……」  治兵衛の声は消えいりそうであったが、それをきくと、佐七はおもわず、辰は豆六と顔見合わせた。  かりにも、柏木の大番頭といえば、四十よりしたの年輩ではない。お糸はことしまだ十八、むろん、ふつうの縁組みとは思われなかった。 「なるほど。それでは、お糸さんがお出掛けになったのでございますね、おひとりで……」 「はい、女中をつけてやろうと申しましたが、お糸がひとりでいいというものですから……ところが、その晩、いつまで待っても、お糸がかえってまいりません。そのうちに、ひどい雪になりましたので、わたしが駕籠《かご》でも迎えにやろうと申しますと、家内がそんなことはしないほうがいい。じゃまになると、いけないからと止めましたので、つい、さたやみになりました。その晩、とうとうお糸はかえってまいりませんでした。たぶん、あの大雪ゆえ、忠助どんに引きとめられて、むこうへ泊まったのであろうと、べつに気にもいたしませんでした」  治兵衛はさすがに顔をあからめたが、それをきくと佐七はまた、辰や豆六と顔見合わせた。  いかに縁組みがさだまっているとはいえ、まだ祝言のすまないうちに、男のもとへ娘ひとり遊びにやるさえあるに、娘がむこうへ泊まりこんでも気にしないというのは、ものがたい当時の町家の家風としては、受け取れないところであった。 「なるほど。それで、お糸さんのいなくなったのがわかったのは……?」 「その翌日、十三日の朝のことでございます。昼まえになっても、お糸がかえってまいりませんので、この年の瀬のおたがいに忙しいおり、なんぼなんでも、あんまりと存じましたので、家内を迎えにやったのでございます。すると、忠助どんのお宅には、ばあやがひとりいるきり。忠助どんは、大伝馬町のお店へいったというので、ふしぎに思って、家内はすぐその足で大伝馬町へまわり、忠助どんを呼び出してたずねますと、なんと、お糸は昨夜四つ(十時)ごろ、忠助どんの家を出たと申します。なんでも、忠助どんが駕籠を呼ぼうと申しますと、駕籠はきらいだから、いらないと答えたそうで、それでは、途中まで送っていこうと、筋違《すじかい》御門のところまで送ってきて、そこで別れたのだそうでございます。こんなことならお宅まで送っていけばよかったが、なんだかきまりが悪かったし、お糸もいやだというので、そこで別れたという話で、さあ、それから大騒ぎになって、きょうまで心当たりをさんざん探しまわっていたところでございます」  お糸が殺されたのは、おそらく忠助とわかれた直後のことであったろう。 「ところで、つかぬことをお尋ねいたしますが、忠助さんのお宅は、忠助さんと、ばあやと……」 「はい、ふたりっきりでございます。しかし、十二日の晩は、ばあやはいなかったのだそうで」 「いなかったというのは?」 「いえ、お糸がまいったときはいたそうですが、お糸がばあやに、今夜は忠助さんとしんみり話をしたいからと、いくらか握らせたらしい。そこで、ばあやは気をきかせて、近所にいる姪《めい》のところへ泊まりにいったのだそうで……」  佐七はみたび、辰や豆六を顔見合わせた。お糸という娘も、そうとうなものである。  大乱脈槌屋の内幕   ——芝居の白子屋お駒《こま》そっくりだす 「親分、わかりました、いや、槌屋《つちや》の店も、表はきれいにかざっているが、うらへまわると大乱脈だ」 「まるで、芝居の白子屋そっくりや。忠助ちゅうやつも、とんだもんにひっかかりよったもんで……」  その晩のことである。  あとにのこって、槌屋の内幕をしらべてきた辰と豆六が、お玉が池へかえってきての話によると、だいたい、こういうことになる。  槌屋のあるじ、治兵衛というのは、うらもおもてもない好人物で、店も番頭手代にまかせたきり、仏いじりによねんのないような人物だが、後妻のお近、妹娘のお糸というのが大変者だった。  お近はすっかり亭主《ていしゅ》をしりにしいて、春秋の物見遊山、夏の船遊び、冬の雪見と、おごりのかぎりをつくしたあげく、おさだまりの役者ぐるい。  母親がその調子だから、娘のお糸もおとなしくしていない。  一日になんべんとなく着物を着かえ、そのつど、頭の飾りから、帯はいうにおよばず、持ち物にいたるまで、すっかりかえるという凝りかただから、これでは、いくら身代があってもおぼつかない。  旅籠町《はたごちょう》の角店と、由緒をほこった槌屋の店も、ちかごろはとんと火の車で、地所家屋も二重三重の抵当にはいっているというご惨状。  このままいけば、ここ半年をいでずして没落するのは、火を見るよりもあきらかだったが、そこをみるにみかねて乗り出したのが、柏木の主人|伊十郎《いじゅうろう》である。  柏木と槌屋とは、ずっと遠い先祖で、親戚《しんせき》になっているらしく、いまでも親類づきあいをしているが、その伊十郎が名家の悲運をおしんで、だした救済策というのが、お糸と忠助の縁談だった。  忠助はことし四十の男盛り、お糸はまだ十八で、お半長右衛門ほど年がちがうが、忠助は三千両という金をためている。  それを持参金に養子にいりこめば、急場の難はのがれられるし、また、忠助ならば白雲頭の丁稚《でっち》より、大番頭にまでなりあがり、三千両という大金をためたほどの辛抱人、きっと槌屋の店も持ちなおしてみせるだろうというのである。  お糸は評判の器量よしだから、忠助はむろんいなやはなかった。  お糸もはじめはしぶっていたが、お近に説き伏せられたのか、それともお店の悲運はおのれもよく知っているから、これ以外に救われようはないと覚悟をきめたのか、とにかくうんと承知して、年が明けて春になったら、式をあげようということになっていたのである。 「なるほど、白子屋お駒《こま》にそっくりだな。すると、お糸にも、才三《さいぞう》のようなおとこがあるだろう」 「へえ、それがまたあるんで。もっとも、お糸というやつは、よっぽど多情な女とみえて、いきあたりばったり、食いあらしていたらしいんですが、ちかごろいちばん熱をあげていたのは、青山源三郎という浪人者らしいので」  槌屋は、深川|六間堀《ろっけんぼり》に大きな寮をもっている。  去年の秋、お糸は少しからだをそこねて、しばらくそこで出養生をしていたことがある。  ひとりでは寂しかろうというので、白痴娘のお袖と、乳母のお峰というのがいっしょだった。こんなばあい、お袖はいつも奉公人どうようの扱いだったらしい。  ところが、その寮のすぐそばに、やはり体をわるくして出養生にきていたのが青山源三郎。  浪人者とはいえ、源三郎はかなりたくわえがあるらしく、のんきに本を読んだり、つりをしたりして暮らしていたが、この源三郎というのが、まだ二十二、三、しかも絵にかいたような美男で、これが病後のこととて、さかやきを少しのばしているのが、ふるいつきたいほどの色気である。 「この源三郎のすんでいるのが、槌屋の寮のすぐちかく、しかも、源三郎の毎日つりにくるのが、寮からまるみえの堀《ほり》というのだから、こりゃねこにかつおぶしもどうようでさあ」 「そこへもってきて、あんた、ついてきているお袖は、気質はようても脳足らんや。乳母は耳が遠いときてるさかい、お糸め、だれはばかるところもなく、毎晩、源三郎をひっぱりこんで、うまいことやってたらしいちゅう話や」  しかし、阿漕《あこぎ》の浦に引く網のたとえのとおり、いつかこのことが旅籠町へきこえたから、おどろいたのは治兵衛とお近。ことにお近は、この娘で大魚をつりよせようという魂胆があるから、いかにたくわえがあるとはいえ、浪人者など眼中にない。そこで、早々にお糸をうちへひきとったのである。 「それで、どうだえ、いまでもふたりはつづいているのか」 「いや、そこはお近の目がきびしいから、どうやら、それなりにけりになったらしいんです。しかし、こんどの忠助との一件が源三郎の耳にはいったら、やっぱりいい気はしますめえよ」 「親分、お糸をころしたのは、この源三郎か忠助にちがいおまへんで。源三郎はチュ助のことを、やきもちやいてお糸を殺す。忠助は忠助で、だんだんお糸のふしだらをききこんで、こんな娘といっしょになるのはまっぴらやと思うたが、いまさら、約束をほごにするわけにもいきまへん。そこで、加賀っ原まで送っていって……」 「しかし、源三郎にしろ忠助にしろ、お糸を殺したのならころしたで、なぜ、そのまま逃げねえんだ。着物をはいだり、雪だるまのなかへ閉じこめたり、なぜ、そんな手のかかるまねをしたんだ」 「そら、親分、こうじゃありませんか。お糸をころした下手人と、着物をはいだやつとは、別じゃありますめえか。下手人が逃げたあとへだれかやってくる。そいつがお糸の着物に目をつけ、持って逃げたのじゃありますめえか。お糸は派手好きな女だし、ましてや、やがて亭主になる男に会いに出かけたんですから、それこそ一張羅《いっちょうら》のりっぱなやつを着ていたにちがいありませんぜ」 「うむ、しかし、それならなぜ、そいつはお糸の死体を雪だるまのなかへ押しこんだのだ。着物をはぐならはぐで、そのまま逃げてしまえばいいじゃねえか」 「親分、あんたはいやに雪だるまにこだわりなはるが、あれへ押しこめたというのが、なにか……」 「そうよ。そこに、この一件の眼目があると思うのよ」  佐七はじっと考えていたが、やがて思い出したように、 「ときに、槌屋の店はどうだ。怪しいやつはいねえか」 「そうですね。槌屋の店には奉公人が三人います。いぜんはもっといたんだが、ちかごろの悲運でみんなにげだし、いまじゃ番頭の喜十郎、手代の清助、丁稚《でっち》の千代松と三人きりなんです」 「丁稚はどうでもいいが、番頭や手代はどうだえ」 「そうですね。喜十郎というのは三十七、八、苦虫をかみつぶしたような男ですが、近所では忠義もんだという評判です。手代の清助は二十四、五、のっぺりしたきざな野郎で、たまには洲崎《すざき》あたりへ遊びに出かけるようですが、ほかにこれといって悪いうわさもないようですね」  佐七はまた、じっと考えこんでいた。  真のやみ無言の情炎   ——お高祖頭巾《こそずきん》は行灯《あんどん》を吹き消して  その翌日は、また雪もようの、どんより空のにごった日だったが、その雪空のなかを槌屋からおとむらいがでた。  寺は広徳寺前の善福寺、歳末多忙の、しかもこの寒空にもかかわらず、小町娘のはだかの死体というのが好奇心をあおったのか、野次馬もまじって、会葬者は思いのほかにおおかった。 「親分、あれが忠助ですぜ。あぶなくお糸の婿になりそこなった男です」  佐七も会葬者のなかにまじってお経をきいていたが、辰に注意されて、ふと本堂のなかをみると、忠助というのはでっぷりとふとった男で、麻裃《あさがみしも》に威儀をただして、ゆったりかまえたところは、あっぱれ大店《おおだな》のだんなといってもはずかしからぬ貫禄《かんろく》だった。  かれはいったい、わかいいいなずけのこんどの惨死を、どう考えているのか、なんの感情もうかがえない顔色だった。 「あいつ、まるで厄落《やくお》とししたような顔つきやないか。お糸が死んでよかったと思てるのかもしれまへんな」  その忠助から、はるかはなれたところに、粗末な紋付きを着てすわっているのは、槌屋の番頭喜十郎、おなじ番頭でも、槌屋と柏木とでは、これだけ格がちがうのかと思われるほど、これは貧相な男である。  三十五、六だというのに、すでに小鬢《こびん》がはげかかって、前歯が一枚かけているのがいっそう貧乏たらしくみせている。  お経のあいだ、かれはじっとうつむいていたが、おりおりおもてをあげて、忠助やお近をみる目に、なんとなくおだやかならぬ色がみなぎっていた。  白痴娘のお袖は、治兵衛とお近のあいだにすわっていたが、これはいちども顔をあげなかった。  いや、顔をあげないのみならず、おりおり思いだしたように、ブルブル肩をふるわせているのが、なんとなく、異様なみものであった。  治兵衛とお近はしずみきっている。  ことに、お近はいっぺんに五つも十も老けたようにみえ、おりおり、そっと忠助の顔をあおぐ目には、恨みか憎しみか、一種異様な光がみられた。  おそらく、つりおとした大魚の逃げ去るのを、歯ぎしりしながら見送る目つきとはこんなものだろう。  佐七はひととおり本堂のなかをみわたすと、目を転じて、寺内にひしめいている会葬者の群れをながめたが、そのとき、ふと目についたのが、なんとなく意味ありげなまなざしで、じっとじぶんのほうを見ているひとりの男。  二十二、三のいい男。さかやきののびた浪人風。  ——と、あいての風体をすばやく見てとり、佐七はおもわずどきっとした。  お糸のおとこの青山源三郎。——と、気がついたとたん、あいてはかすかにほほえんだが、やがて、なにを思ったのか、野次馬をかきわけて、佐七のほうへちかづいてきた。 「お玉が池の佐七であろうな」 「へえ、そういうあなたは、青山源三郎さまでございましょうねえ」 「はっは、じゃのみちはへびというが、さすがよく詮議《せんぎ》がいきとどいているな」  源三郎はにっこりわらって、 「いかにも拙者、青山だが、ちとそのほうに話したいことがある」 「お、さようで。ちょうどさいわい、門前に茶店があります。それでは、むこうへまいってお話をうけたまわりましょう」  茶店には会葬者のくずれがおおぜいいたが、佐七はそれをさけて、奥まったかたすみに源三郎を案内すると、 「で、お話とおっしゃるのは?」 「さればじゃ、拙者ちとふに落ちかねたことがある。うわさによると、お糸どのが殺されたのは、十二日の晩ということだが、しかとさようか」 「へえ、それはもう、まちがいはございませんが、それになにかご不審でも……」 「うむ、不審も不審、大不審。拙者は十三日の晩にお糸どのに会うた」 「えっ」  佐七はおもわず源三郎の顔を見なおした。  辰も豆六もびっくりして、源三郎の顔を見つめている。佐七はひとひざゆすり出ると、 「青山さま、それはどういうわけでございます。そこんところをもうすこしくわしくお話しねがえませんか」 「うむ。まあ、聞け。こうだ」  源三郎の話によるとこうである。  お糸源三郎のなかは、お糸が旅籠町《はたごちょう》へつれもどされると同時にきれてしまった。  源三郎もいちじの気まぐれ、それほどふかくお糸をおもうていたわけでもないので、まあ、おもしろい夢でもみたぐらいの気持ちで、お糸を追おうともしなかった。  その後、お糸に縁談のもちあがったことも耳にしたが、当然のなりゆきとして、べつに意にもかいしなかった。  ところが、十三日の晩のことである。  六間堀にある源三郎の住ま居の戸を、ほとほととたたくものがあるので、源三郎がみずから出てみると、おもてには、お高祖頭巾《こそずきん》ですっぽり顔をつつんだ娘が、はずかしそうに立っていた。 「おお、お糸か」  見おぼえのあるお糸の着物に、源三郎がおもわずそう声をかけると、あいてはかすかにうなずきながら、なつかしそうに源三郎によりそった。  源三郎はその手をとってうちへはいると、お高祖頭巾をとろうとしたが、すると、あいてはいきなり行灯《あんどん》の灯をふき消して、暗やみのなかで、ひしとばかりに源三郎にすがりついた。 「お糸はだいたんな女で、あかりをはばかるような娘ではないのだが、しばらく会わなかったからおもはゆいのであろうと、拙者はべつに気にもとめず……」  久しぶりの逢瀬《おうせ》をたのしみ、ふたり抱きあって燃えにもえたが、さて、ひと眠りして目がさめると、女の姿はみえなかった。  ——というのである。  佐七はそれを聞くと、きらりと目を光らせながら、 「それじゃあなたは、とうとう、女の顔を見ずじまいで」 「いかにも」 「そして、あいてはなにか話をしましたか」 「いや、あとから考えると、一言も語らなかったようじゃ。どうも、日ごろのお糸らしくないふるまいじゃと思うたが……」 「いや、よくわかりました。それが十三日の晩のことですね」  佐七はじっとかんがえていたが、やがて源三郎にわかれて茶店を出ると、 「辰、豆六」 「へえ、へえ、親分、なにか御用で」 「十三日の晩に、旅籠町のかいわいから深川六間堀のちかくまで、お高祖頭巾の女をのせていった駕籠《かご》があるはずだ。おまえら、そいつを探してこい」 「親分、それじゃおまえさんは、いまの話をほんとうだとお思いなさるんで」 「源三郎め、ええかげんなことをいうて、親分をペテンにかけよんのとちがいまっか」 「まあ、いいからいってこい」 「おっと、がってんだ。そして、親分は?」 「おれは、もうすこしここに用がある」 「それじゃ、親分、のちほど……」  ちょうどそのころおとむらいもおわって、槌屋の連中は本堂から渡り廊下をわたって、書院のほうへ引きあげていたが、佐七はそのなかから、 「もし、番頭さん、柏木の番頭の忠助さん、ちょっと顔をかしておくんなさい」  と、忠助を呼びとめていた。  色仕掛け手練手管   ——口を吸って吸ってとせがまれて 「こんな席でなんですが、あの晩、ほら、お糸さんの殺された晩のことを、おたずねいたしたいと思いましてねえ」 「あの晩のことといって、べつに話すこともありませんが……」  忠助は顔をしかめてからぜきをした。  話すことはないといいながら、なにかあの晩のことについて、いやな思い出があるらしい。 「いえね、お糸さんはあの晩、おまえさんのところへ押しかけていった。そして、ばあやを追っぱらっていったい、おまえさんになにをしかけたんです」  真正面から佐七に見すえられて、忠助はてれたように、あからめた顔をなであげながら、 「いや、こうなれば、なにもかも申し上げてしまいます。じつは、わたくし、こんどの縁談については、つくづく後悔いたしました。聞けばきくほど、ふしだらなお糸|母子《おやこ》の行跡。とてもわたしでは納まるまいと思いましたので、いちど柏木のだんなにご辞退を申しでたのでございますが、だんなに拝みたおされて、またぞろ思いかえしたのでございます。ところが、そのことが槌屋のほうへきこえたのか、あの晩、お糸がじきじき乗りこんできて、なにやかやと、いやらしく持ちかけるのには、ほとほと閉口いたしました」 「なるほど。お糸は色仕掛けで、おまえさんと抜きさしならぬ仲になってしまおうとしたんでございますね。しかし、おまえさん、その手にのるようなことは……」 「まさか……」  と、忠助は苦笑いをして、 「祝言の杯もすまぬうちから、そんなこと、あさましゅうてできはしません。それで、さんざんお糸がダダをこねて、泊まりこもうとするのをいろいろなだめて、やっと、筋違《すじかい》御門のところまで送ってわかれたとには、わきのしたに汗びっしょりでした」 「おまえさん、そこであっさりおわかれなすったか。別れるまえに、なにかありはしませんでしたかえ」 「別れるまえになにかとは……親分、おまえさん、まさか、わたしがお糸を……」 「いえいえ、あっしのいうのはそうじゃねえんで。わかれるまえに、お糸さんが抱きつくとか、口を吸うとか……」 「えっ!」  忠助はおもわず目をみはったが、やがて、うでだこのようにまっかになると、 「親分、おまえさんは、どうしてそれをご存じなんです。そうでした。お糸がいきなり、わたしの胸にすがりついて、口を吸って……と、わたしはもうびっくりでして、お糸のからだを突きはなすと、雪の中をいちもくさんに逃げ出しました」 「はっはっは、おまえさんのまえだが、お糸というのはそうとうなもんですね。あくまでも色仕掛けで、おまえさんをたらしこもうとしたんですね。これゃア、お糸が死んで、おまえさん、厄《やく》のがれをなすったのかもしれねえ」 「ほんに、親分、仏のまえでいうのはわるいが、わたしもなんだかそんな気がします」  忠助はまったく厄落としをしたような顔色だった。佐七はそこで鉾先《ほこさき》をかえると、 「ところで、つかぬことをお尋ねいたしますが、おまえさん羽織を着るでしょうね」 「羽織……」  忠助はふしぎそうに、 「はい、着ます。どこの店でも、小僧手代のあいだはゆるされませんが、番頭になると、羽織を着ることをゆるされます」 「ところで、おまえさんは羽織のひもに、どんなものをふだんおつかいになります。ひょっとすると、こよりでも……」 「まさか……」  と、忠助はにが笑いして、 「かりにも柏木の大番頭、そんなしみったれたまねはできません」 「どうでしょう、槌屋の番頭の喜十郎さんは? あのひとがこよりを羽織のひもがわりにつかっているのを見たころはありませんか」  忠助はしばらくかんがえていたが、 「そういえば……そうそう、あのひとはいつも、こよりをつかっているようです。槌屋のうちでも、あのひとだけが堅いいっぽうで、だいぶじぶんの金もためているということです」  そこまで聞くと、佐七はおもわずにんまりわらった。  物語もここまでくると、もう解決したようなものである。  佐七はその場で、下手人をひっくくってもよかったのだが、なんぼなんでもおとむらいの席からなわ付きが出たとあっては、槌屋ののれんに傷がつこう。  どうせあいては逃げるような人物ではないと、ひと晩|不愍《ふびん》をかけたのがいけなかった。その晩、槌屋ではたいへんなことが起こったのである。 「親分、いけねえ。槌屋ではうえをしたへの大騒動だ」 「番頭の喜十郎が、おかみさんを殺して首をつりよった」 「そればかりじゃねえ。白痴のお袖がのどをついて……」 「えっ、お袖も死んだのか」 「いや、このほうは急所をはずれて、どうやら助かるらしいちゅう話やが、なににしても大騒動、大騒動。親分、はよきとくれやす」  その翌朝、はやくから旅籠町かいわいへ、お高祖頭巾の女をのせた駕籠屋をさがしに出かけた辰と豆六が、あわを食ってかえってきたから、 「しまった!」  佐七は心中舌打ちしながら、旅籠町の槌屋へかけつけたが、もう万事あとの祭りであった。  青くなっておろおろしている治兵衛や、変事をきいてかけつけていた忠助をとらえてようすをきくと、喜十郎がお近を殺して自殺したいきさつは、だいたいつぎのとおりである。  昨夜、お糸の回向もおわって、お客人もひきあげたあと、番頭の喜十郎がただならぬ顔色で、お近にちょっと顔をかしてくれといった。  お近はなにかはっとしたようすであったが、あいてのようすがあまり真剣なので、いやともいえず、奥の離れへ喜十郎にともなわれてはいっていったが、それからまもなく、きこえてきたのがお近の悲鳴。家人がおどろいてかけつけると、喜十郎が出刃をふるって、ズタズタにお近を切っているところであった。  あまりのおそろしさに、治兵衛はじめ一同は、しびれたように立ちすくんでしまったが、そのあいだに喜十郎は、さいごの一撃をお近にくれると、そのまま表へとび出した。  そこで大騒ぎになって、近所の鳶頭《かしら》やなんかをたのんで喜十郎のゆくえをさがしたが、明け方ごろになって、加賀っ原の松の木に、首をくくてぶらさがっているのが発見されたのである。  ところが、この騒ぎのなかに、またぞろ槌屋ではもうひとつの騒ぎが持ち上がった。  お袖の部屋から、へんなうめき声がもれてくるので、ばあやのお峰がのぞいてみると、お袖があけにそまってたおれている。  さいわい、このほうは急所もはずれ、傷もあさかったが、なににしても重ねがさねの珍事に、槌屋の家内は生きたここちもなかったのである。  白痴娘この世の悲願   ——源三郎もその夜の女の移り香に 「親分、喜十郎どんは気でも狂ったのでございましょうか。なんだって、おかみさんを殺して、首などくくったのでございましょう」  佐七がかけつけたときには、もうなにもかも終わったあとだった。  大戸をおろした槌屋の家内は、いっときに出たふたりの死人と、ひとりのけが人をかかえこんで、医者よ、検視よと、いっとき大騒ぎだったが、やがてそれもおさまると、あとは、いくらふいても消えぬ血のにおいと、線香のにおいが家中にたちこめて、いかにも凶事のあったあとらしい一種の鬼気がみなぎっていた。  そういう鬼気みなぎる離れ座敷で、佐七とむかいあってすわった治兵衛と忠助は、まだ悪夢からさめやらぬ顔色である。  佐七はため息をして、 「そうですねえ。まあ、気が狂ったということにしておきましょう。そのほうが無難でいいでしょう。だんな、番頭さん」  佐七はふたりの顔を見くらべて、 「お糸さんを殺したのは、喜十郎さんだったのでございますよ」  治兵衛と忠助は、はっとしたように顔見合わせたが、やがて、忠助がひざをすすめて、 「いや。こうなってみると、おおかたそんなことではないかと思ってましたが、しかし、喜十郎どんがなんだってお糸さんを……」 「さあ、それでございます。こうしてかかりあいのものがみんな死んでしまったからには、あとは当て推量でいくよりほかはありませんが、お糸さんはきっと、喜十郎とも変ななかになっていたんでしょう。むろん、喜十郎にほれてたわけじゃない。お目当ては喜十郎のためこんだ金にあったんです。奉公人のためこんだ金を、色仕掛けでねらわねばならぬほど、お糸さんもお近さんも、ちかごろ金に困っていたんですね」  治兵衛ははっとまっかになり、面目なげに首をたれた。  忠助は腕組みをしたまま無言でひかえている。  佐七は気の毒そうに、治兵衛の顔を見まもりながら、 「おかみさんもむろん、それを知っていなすったのだろうが、金が欲しさに、見てみぬふりをしていたんでしょう。いや、内々にお糸さんをけしかけ、また、喜十郎さんにむかっては、ゆくゆくお糸さんと夫婦にしてやると、うれしがらせのひとつもいったにちがいありません。喜十郎もその気になって、そこで、せっせとためこんだだいじなとらの子を吐き出していたが、そこへ持ちあがったのがこんどの縁談。喜十郎がやきもきするのもむりはないが、お糸さんはそんなことは歯牙《しが》にもかけない。この縁談に大乗り気になったばかりか、それがこじれそうになると、みずから十二日の晩、忠助さんのところへ乗りこんでいったから、さあ、喜十郎としては、いても立ってもいられません。そこで、夜更けに、そっとお店を抜け出して、筋違御門のところまでいったが、そこで、見てはならぬものをみてしまったんです。すなわち、お糸さんと忠助さんが抱きあって、口を吸うているところを……」  忠助ははっとして、なにかいおうとしたが、すぐ思いなおしたように口をつぐんだ。 「いや、そのとき、おまえさんはお糸さんに迫られて、びっくりして、ふりきって逃げたのでしたが、喜十郎の目にはそう見えなかった。ああして、別れぎわに口を吸わせるところをみると、てっきり、できてしまったのちがいないと早合点して、そこで、お糸さんがひとりになるのを待って、加賀っ原へひっぱりこみ、あいての不実を責めているうちに、つい力が入って、お糸さんを絞めころしてしまったのです。ところが、悪いことはできないもので、そのとき、こよりでつくった羽織のひもを、お糸さんにひきちぎられたんですね」 「なるほど、そういう証拠があってはのがれぬところと、そこで観念して、いきがけの駄賃《だちん》におかみさんを殺し、じぶんも首をくくって死んだのですね」  佐七がうなずいた。 「しかし、ふしぎなのはお袖さんです。お袖さんはなんだって自害しようとなすったんです」  忠助はまだ不審のさめやらぬ顔色である。佐七はおもてをくもらせて、 「それについちゃ、ここにあわれな話があります。お糸さんが殺されたつぎの晩、お糸さんの着物をきて、お高祖頭巾で顔をかくし、お糸さんの昔の恋人のところへ忍んでいって、契りをかわした女があるんです。あっしゃその女こそ、お袖さんにちがいねえとにらんでいるんですがね」  治兵衛ははじかれたように顔をあげた。忠助は目をまるくして、 「そ、それじゃ、親分、もしやお糸さんをはだかにして、雪だるまのなかへ埋めたのは……」 「そうです。お袖さんでしょう。喜十郎ならば、死体を雪だるまにかくすにしても、まさか、はだかにすることはなかったでしょうからねえ」  忠助もうなずいて、 「わたしもそれをふしぎに思っていたんですが、それじゃ、お袖さんは、妹の身代わりになるために……」 「そうです、そうです。お袖さんはお糸さんを迎えにいったか、それとも、喜十郎のようすを怪しんで出かけていったか、とにかく、雪の中にたおれている妹の死体にぶつかった。ところが、そのお袖さんは、かねてから妹のおとこ、青山源三郎という浪人者におもいをよせていたが、白痴の悲しさ、いままで悲しく思いあきらめていたが、いま、こうして妹の死体をみたとたん、妹の身代わりとなって、恋しいひととせめて一夜の契りをと……」  佐七は声をしめらせて、 「そこで、お袖さんは、妹の着物をはぎとった。しかし、お糸さんの死んだことがわかっては、身代わりになることもできません。だから、じぶんがおもいをとげるまで、たとえ二日でも三日でも、妹の死んだことをかくしておこうと、お糸さんの死体を雪だるまのなかへ押しこんだのです。そうして、そのつぎの晩、お糸さんの着物をきて、お糸さんの身代わりとなり、首尾よくおもいをとげたのを、せめてもの思い出として、いさぎよくこの世をさろうとしたんです。いや、死人の着物をはぐなどとは、鬼のような所業ともおもわれますが、あっしゃお袖さんのお気の毒な身のうえ、悲しい心根をおもうと、にくむ気にはなれませんねえ」  佐七はそういって、くらいため息をもらした。治兵衛も両手を目にあて、忠助も指で目頭をおさえていた。  しかし、人間、なにがしあわせになるかしれたものではない。一件落着ののちに、忠助がこの件についてのりだしたのである。  かれは侠気《おとこぎ》のある、世話好きな人物だった。  忠助はじかに源三郎にあうと、かなしいお袖の心根をつたえた。  源三郎もいったんは、十三日の夜、契りをかわした女がお糸の身代わりだとしっておどろいた。  しかし、その夜の女のうつり香は、ふしぎににかれの血肉のなかに、なつかしい思い出となってのこっていた。  それはいたずらなお糸などとちがって、はじらいがちななかにも、しみじみと男の愛欲を満足させる、殊勝な女の肉の味わいだった。  そこで、お袖源三郎、年が明けて弥生《やよい》三月、忠助のうしろだてで、めでたく三々九度の杯をした。お袖はすこし抜けているとはいえ、まことに気立てのよい女だったので、源三郎も掌中の玉のごとく愛《め》でいつくしんだ。  槌屋の店はつぶれたが、治兵衛もこれでようやく老後の落ちつきさきをえたわけである。  忠助はその後ほかからよい嫁をもらい、柏木ののれんをわけてもらって、末長く栄えたということである。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳(巻十四)◆ 横溝正史作 二〇〇四年四月二十五日 Ver1